「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説!
「心にもあらで」の「辛い世の中」
十二月に入ると、三条の病悩は重くなっていた。『栄花物語』によれば、有名な「心にもあらで」の歌が詠まれたのは、この月のことであったことになっている。確かに、姸子に贈ったとする記述を信じるならば、十一月十七日の内裏焼亡による十九日の枇杷殿遷御の後のこの時期が、もっとも相応しい。 心にも あらでうき世に 長らへば 恋しかるべき 夜(よ)半(わ)の月かな (本意に反して、この辛い世の中に生きながらえるならば、そのときにきっと恋しく思うにちがいない、この夜半の美しい月であるよ) 中宮の御返しは……。 すでに注目されているところであるが、姸子の返歌はここでは記されず、いきなり長和五年正月の譲位の記事に続くのである。姸子は返歌を詠まなかったのであろう。「この辛い世の中」は、姸子の父である道長によってもたらされているのである。 三条は、「生き長らえたならば、この美しい月を恋しく思うにちがいない」と詠んでいるが、少なくともこの時点では、実際に空に浮かぶ月を見ることができなくなっているであろうことは間違いない。三条が本当に見たかった(会いたかった)のは、この歌を贈ったとされる姸子ではなく、恋しく思う美しい(と若い頃に思った)若き日の娍子の姿、そして娍子と過ごした日々だったのかもしれない(月は皇后〈こうごう〉の象徴である)。 十二月十五日、三条は道長に、明年正月に譲位を行なうということを申し出た。この頃、時期は判然とはしないが、敦明を新東宮に立てることが決まったらしい。三条・道長の両者にとっても、全面勝利とは言えないまでも、とりあえずは自己の政治的要求は貫徹したといったところか。特に、目が見えずに政務を総攬(そうらん)できず、公卿層の支持も失なっていた三条にとっては、後見(こうけん)のない第一皇子を東宮に立てるというのは、十分に勝利を勝ち取ったと評価できるであろう。
外祖父摂政は三例のみ
長和五年(一〇一六)正月、ついに道長が権力の頂点に立った。これまで長く政権の座にあったとはいっても、それはあくまで内覧兼左大臣として、時の天皇や公卿層との間で協調と妥協を繰り広げながら、政権運営を続けてきたに過ぎなかった。 ところが摂政となると、天皇が行なう政事(マツリゴト)を幼少の天皇に代わって行使することになる。特に人事決定権を握れるということは、その権力を万全のものとした。 特に道長の場合、天皇が自己の外孫であるという外祖父摂政であった。実は平安時代を通じて、外祖父摂政は清和(せいわ)朝の藤原良房(よしふさ)、一条朝の藤原兼家(かねいえ)、そして後一条(ごいちじょう)朝の道長と、三例しか見られないのである。 しかも天皇と摂政とを結ぶ国母(こくも、彰子)はまだ存命しており、政治に口を出すことも多い天皇の父院(ちちいん、一条院)は死去しているという、およそ考えられる限り最高度のミウチ的結合を実現したのである。 二十九日、土御門第(つちみかどてい)において敦成が皇位に即き(後一条天皇)、道長は摂政に補された。二月七日には、後一条の即位式(そくいしき)が大極殿で行なわれ、太后(おおきさき、彰子)が高御座(たかみくら)に登った(『御堂関白記』)。後一条を挟んで、西に彰子の座、東に道長の座が設けられたが(『小右記』)、長女・外孫と並んで南面(なんめん)し、北面(ほくめん)する百官(ひゃっかん)を見降ろした道長の感激は、想像に余りある。彰子はこの後も国母として、後一条と同輿(どうよ)することになる。