「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説!
「古今に比べようがない栄花」
敦良の立太子は、ほとんどの人々にとって、宮廷社会の安定をもたらすものとして歓迎されたはずである。敦明が即位した際に起こるであろう、道長(あるいは頼通)と敦明との軋轢(あつれき)、また顕光と道長家との政治抗争、あるいは道長も顕光も死去した後の、外戚のいない天皇と、その天皇とミウチ関係のない関白(かんぱく、頼通あるいは教通〈のりみち〉)とのぎくしゃくした関係など、誰も望んではいなかったはずである。 七日、公卿が多く道長の許に集まり、九日に敦良が立太子することが決定した。新東宮敦良は後に後朱雀(ごすざく)天皇となり、結果的に皇統(こうとう)を嗣いでいくことになる。 二十一日、新東宮敦良親王が慶賀(けいが)のために参内し、彰子に謁見した(『御堂関白記』『小右記』『権記』)。公卿たちは紫宸殿(ししんでん)に到って、格子(こうし)からこの儀をうかがい見た。一歳違いの天皇と東宮の対面を観望(かんぼう)した者は皆、つぎのように語り合ったという(『権記』)。 一家の栄花(えいが)は、古今に比べようが無い。未だ前生(ぜんしょう、前世〈ぜんせ〉)で何の善根(ぜんこん)を植えたのかを知らない。まことにこの栄花よ。
律令官制を超える権力
寛仁二年(一〇一八)に、道長の栄華が頂点を極めた。後一条を元服させたうえで、これに四女(倫子〈りんし〉所生では三女)の威子(いし)を入内させ、中宮に立てたのである。 正月三日、後一条の元服の儀が行なわれ、道長は太政大臣として加冠を務めた。後一条元服の儀を終えた道長は、人臣最高の官である太政大臣にも固執する気はなかった。もはや道長の権力は、律令官制などに規定される範囲を超えていたのである。 三月七日には、二十歳の威子が予定どおりに入内し、四月二十八日に女御宣旨(にょうごせんじ)を蒙(こうむ)った(『御堂関白記』『小右記』)。九歳年上の叔母と甥の「結婚」であった。
摂関期を象徴する歌
七月二十八日に威子の立后(りつごう)が決定した。この日、彰子が早期の立后を言い出している。そして十月十六日がやって来た。立后の儀式が終わり、土御門第において行なわれた本宮(ほんぐう)の儀の穏座(おんのざ、二次会の宴席)のことであった。「祖(おや、道長)が子(頼通)の禄を得ることは、有ったであろうか」などと言って上機嫌の道長は、和歌を詠んだ。『御堂関白記』には、賜禄(しろく)の儀の後、「私は和歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱(えいしょう)した」としか記されていない。 しかし、実資が珍しくこの宴に参列し、この歌を記録した『小右記』の記事が散逸(さんいつ)せずに広本(こうほん、抄略〈しょうりゃく〉せずに原本を多く伝えた写本)で残っているおかげで、道長が歌を詠んだ経緯や、摂関(せっかん)期という時代を象徴するこの歌が今日まで伝わっているのである。しかも前田本『小右記』はこのあたりが焼損(しょうそん)していて、この歌は「望月乃虧(かけ)」しか残っていない。しかし、江戸時代に書写された新写本が残っているおかげで、この歌が後世に伝わったのである。 一般には、実資が道長の拙(つたな)い歌に和す気になれなかったとか、傲(おご)りたかぶった道長の態度に嫌気がさして和さなかったとか考えられているようであるが、『小右記』を虚心に読むかぎりでは、たんなる座興(ざきょう)の歌であって、別にそういったわけではなさそうである。 いずれにせよ、この和歌が悪しき政治体制としての摂関政治というイメージを増幅させていたのであるし、天皇を蔑(ないがし)ろにする尊大な悪人道長のイメージを定着させてしまったことも事実である。史料というものの面白さと怖さが象徴的に表われた事例である。
倉本一宏