「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説!
為時は三井寺で出家
ところで、為時(ためとき)は長和三年六月に任期を残して越後守を辞任し、長和五年四月二十九日に三井寺(園城寺)で出家している(『小右記』)。三井寺には子の定暹(じょうせん)がいた縁によるものであろう。もう七十歳に近い年齢だったのであり、出家しても不思議ではなかった。もちろん、紫式部との関わりは、定かではない。 なお、為時はその後、寛仁(かんにん)二年(一〇一八)正月二十一日に「為時法師」として摂政大饗(だいきょう)用の四尺倭絵屏風(やまとえびょうぶ)に漢詩を作っているが(『御堂関白記』『小右記』)、その後の動静は不明である。死没年は明らかでない。
摂関家という家格
寛仁元年(一〇一七)二月二十八日、頼通を内大臣(ないだいじん)に任じることを定め、三月十六日には、道長が一年余りで摂政を辞し、二十六歳の頼通にこれを譲った。それは摂関家(せっかんけ)という家格(かかく)の形成の端緒であった。これも道長が末子であったことによって、弟に権力を伝えずに済んだという幸運によるものである。 ただし、むしろ官職秩序から自由となった道長は、この後も「大殿(おおとの)」「太閤(たいこう)」などと呼ばれ、摂政頼通を上まわる権力を行使し続けることになる。道長の権力の源泉が、律令などに規定された官職秩序とは別の原理にあったことを示している。
三条天皇の死で影響を受けた敦明親王
この年は疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)していたが、三条院もそれに罹(かか)った。四月二十一日に病悩しているとの知らせを受けて、道長は何度も見舞いに出かけているが、たいていはすぐに退出している(『御堂関白記』)。 五月九日の深夜、三条は人事不省となった。参入した道長は、三条の臨終に際して、御前に伺候することなく、地面に降りた。そして三条が死去した後に退出している。十二日に行なわれた葬送(そうそう)では、道長は、手際よく準備を行なったものの、葬送には供奉しなかった。「志が無かったわけではない。身に任せなかったのである」とのことである(『御堂関白記』)。 三条の死去によって、もっとも大きな影響を受けたのは、東宮の敦明親王であった。もともと敦明の立太子(りったいし)は、三条と道長との間の妥協の産物であったが、その三条がいないとなると、敦明の権力基盤は、きわめて脆弱(ぜいじゃく)なものとなったのである。 しかも、本人に皇位への執着がなく、その外戚(がいせき、通任〈みちとう〉や為任〈ためとう〉)も姻戚(いんせき、顕光〈あきみつ〉)も頼りにならず、道長が後一条の同母弟である敦良(あつなが)親王の立太子を望んでいることが自明である以上、敦明が東宮の地位から降りることは、時間の問題であった。 敦明が東宮の地位を辞めたがっているという情報は、八月四日に、道長の四男(源明子〈めいし〉所生)である能信(よしのぶ)からもたらされた(『御堂関白記』)。六日、敦明と道長との会談が行なわれ、敦明の遜位が決定した。後に敦明生母の娍子(せいし)は、敦明が自分に相談することなく、気軽に外に漏らしたことを咎(とが)めて怒っている(『権記(ごんき)』)。 後に道長が実資に語ったところによると、敦明が語った遜位の背景は、「自分には輔佐する人が無い。春宮坊(とうぐうぼう)については、有って無きがごときものである。院(三条)が崩御(ほうぎょ)した後は、ますますどうしようもなくなった。東宮傅(とうぐうふ、顕光)と春宮大夫(とうぐうだいぶ、斉信〈ただのぶ〉)は仲がよくない。まったく自分のために無益にしかならない。辞遁(じとん)するに越したことはない」というものであった(『小右記』)。 道長は敦明と会談した六日のうちに、彰子に報告を行なった。「皇太后宮(こうたいごうぐう、彰子)のご様子は、云うべきではない」と記しているのは(『御堂関白記』)、いまだに敦康(あつやす)親王の立太子を望んでいた彰子の怒りを指しているのであろう。