村田衝撃KOデビューの理由
殺戮の右ストレート
村田諒太は、笑いながら入場してきた。 花道に南京都ボクシング部のOBが勢ぞろいしていた。 「へい!」 その声に合わせて、「おお!」と声を挙げてハイタッチ。 笑うこと。彼は「それが一番緊張を解きほぐす方法なんです」と考えている。 「倒すぞ」「勝つぞ」と闘争心をかきたてて集中し過ぎると、それが力みや硬さに変わる。それがわかっているからこそ、村田は、ロンドン五輪決勝の入場と同じように笑っていた。 実は、この日の昼間に、初動負荷運動と呼ばれる、ヤンキースのイチローも取り入れている独特のフィジカル&コンディショニングトレーニングに汗を流してきた。 「これをやっとくと体が動くんです」 メンタルと肉体。村田は準備を完了していた。 「村田は歴史に名を残す」 大物プロモーターが断言 有明コロシアムは、結構な人で埋まっていた。入場を封鎖していた最上席を除くと、ほぼ9割の入り。村田のデビュー戦は、6回戦。アンダーカードにも、注目カードがない興行で異例の動員である。 プロボクサーとして初めて聞くゴングが鳴ると、高く上げたガードを小刻みに動かしながら、いきなりワンツーを放った。続けて右のブローを打ち込むと、柴田の表情が明らかに怯えに変わった。ステップワークが信条だったボクサーが下がる。 今度は、ボディを左から右と攻めて上へのコンビネーション。その打ち終わりに柴田が、いい右を返したが、村田は、ニヤっとマウスピースを見せた。 「そのパンチは意味ないですよ」と、思わせるためのブラフ。 初めてヘッドギアを付けず、プロの小さなグローブをはめた。 「ヘッドギアがないと距離が近いな、頭が当たると目を切ってしまうな」 冷静にプロの時間を楽しんでいた。 おそらく柴田のスピードとパワーを見切ったのだ。脇をしめ両ガードで顔を塞ぐようにして距離を詰めていく。凄まじいプレッシャーに東洋王者は逃げ場を失った。村田がロンドン五輪で金メダルを獲得した時の、お得意のスタイルである。 「ブロックで行けると思った。ベガスではいろんなスタイルをやってきたので、相手によっては、当然、こっちのスタイルは変わっていきます」とは、村田の回想。 殘り30秒ほどだったか。体をさばかれ、一度、右が空を切ったが、動いて体勢が崩れたことを確かめると、その顎へバズーガー砲のような一撃。柴田は、ロープに吹っ飛ぶようにして腰から斜めに砕け落ちた。当たれば終わるーーそんな時限爆弾みたいな殺戮の匂いがする本物の中量級のパンチにお目にかかったのは、いつ以来だろう。 柴田はゴングに助けられたが、もう、その神経系統は破壊されていた。 2ラウンドに入ると、村田はワンツーを軸にハリケーンのようにパンチを浴びせた。得意のボディを振り回し、アマ時代に、ほとんど打たなかった左ジャブも打った。右のオーバーフックがテンプルに当たると、柴田は、またよろけた。苦しまぎれの右には、今後は、勢いをつけたカウンターの右を合わせた。成す術もなく棒立ちになった柴田に、もうひとつ右のブローを浴びせるとレフェリーが両者に割け入って試合を止めた。2ラウンド、2分24秒のTKO勝利。ミドルという階級と柴田のダメージを考えると適切なストップだったと思う。 村田は、静かにリングの四方にお辞儀をした。 南京都高校ボクシング部時代の、亡き恩師、武元前川先生から、「相手がいるからこそボクシングという競技は成り立つのだ。負けた相手に敬意を表しなさい。派手なパフォーマンスはしてはならない」と、言いつけられてきたスタイルを守った。 リングサイドには、武元先生の奥さんと、息子さんが、並んで座っていた。 村田のTKOが宣言された瞬間、奥さんは、手を合せて目を閉じていた。 きっと、天国の武元先生へ報告しているだと思った。 「主人の誕生日にいいプレゼントになりました。いつも主人は『村田は金メダルが取れる、そして『世界チャンピオンにもなれる』と言っていたんです』 武元夫人は、そう言ってハンカチを目にあてた。