【光る君へ】彰子に育てられた「定子の子」 敦康親王の気の毒すぎる短い生涯
敦康が彰子に育てられた理由
そして、敦康親王自身が心配する場面も登場した。敦康は育ての親である中宮彰子に「子が産まれたら、私と遊ばなくなるのでしょ?」と問いかけ、次第に核心を突いていった。「私は中宮様の子ではございません。まことの子がお産まれになれば、その子のほうが愛おしくなるのは道理です」。 その問いに対する彰子の返答は、おそらく史実の彰子の思いに近かったと思われる。「親王様がほんの幼子であられたころから、親王様と私はここで一緒に生きて参りました。今日までずっと。帝の御渡りもないころから、親王様だけが私のそばにいてくださいました。この先も、私のそばにいてくださいませ。子が産まれても、親王様のお心を裏切るようなことは決してございませぬ」。 実際、敦康親王は道長の思惑によって、彰子に育てられたのだった。 皇后定子が敦康を産んだのは長保元年(999)11月7日のことだった。ところが、1年後の長保2年(1000)12月15日、定子は第二皇女を出産後に亡くなってしまう。定子の兄の伊周も、スキャンダルで流罪になったのち、帰京は許されたが、まだ以前の地位にはほど遠く、敦康は後見がいない状況に置かれた。 道長にすれば、入内させた彰子に皇子を産ませたいが、数え12歳で入内した彰子は若すぎて、まだその可能性はない。敦康親王が円融系の唯一の親王である以上、最高権力者たる道長としては、不本意ながらも後見するしかなかった。 ただ、最初は道長の長兄である道隆(井浦新)の四女、つまり定子の末妹の御匣殿が敦康を養育していたのだが、一時、定子が忘れられない一条天皇の寵愛が御匣殿に向かったことがあった。このため、道長は一条天皇を御匣殿から切り離すために、彰子に育てさせることにしたのである。
敦康を東宮にしたかった彰子
道長が敦康を彰子に育てさせたねらいは、別のところにもあった。敦康が彰子のもとにいれば、一条天皇は敦康に会いたくて、彰子の後宮を訪れる機会が増えるのではないか。そうすれば、彰子が皇子を産む可能性も増すのではないか。それをねらうのと同時に、彰子が皇子を産まなかったときのことも考えていた。結果的に敦康が即位することになっても、彰子を敦康の養母にし、自分は養祖父になっておけば、権力を維持できるというわけである。 しかし、寛弘5年(1008)9月11日、道長の念願がかなって、彰子は敦成親王を出産した。ドラマでは秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』によれば、道長は言い表せないほど大よろこびだったという。そして、これ以降、道長にとって敦康は、「まったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となった」(『藤原道長と紫式部』講談社現代新書)のである。 しかも、翌寛弘6年(1009)11月25日には、彰子はさらに第三皇子の敦良親王を出産した。東宮候補の孫が2人できた道長にとって、敦康の存在はますます邪魔になっていっただろう。そして、すでに40代半ばに達していた道長は、自分が早く天皇の外祖父になって、政権を安定させたいという望みを、大きくふくらませたと考えられる。 だが、彰子は『光る君へ』のセリフどおりに、敦康親王が「ほんの幼子であられたころから、ここで一緒に生きて」きた。親代わりになって8年が経過していた。だから、たとえ敦成を出産したあとであっても、先例どおりに第一皇子である敦康を東宮にすべきだと考えた。 というのも、先に敦康が東宮になり、即位したとしても、敦成はまだ生まれたばかりなのだから、いずれ東宮になり、即位する可能性は十分にあった。一条天皇の在位は25年続いたが、その長さは当時としては例外で、数年で引退することが多かった。だから、両統迭立の習いで、敦康の次には冷泉系の敦良をはさんでも、敦成はその次に東宮になればいい。 だから、一条天皇も彰子も、まずは第一皇子の敦康を東宮にしたいと望み、『栄花物語』によれば、彰子は父の道長に、敦康を東宮にしてほしいと何度も申し入れたという。