【光る君へ】彰子に育てられた「定子の子」 敦康親王の気の毒すぎる短い生涯
第一皇子で東宮になれなかった例外中の例外
しかし、道長は彰子の願いにはまったく耳を傾けなかった。『光る君へ』では描かれないが、道長は病弱であり、ある年齢からは飲水病(現代の糖尿病)の持病もかかえていた。元気なうちに、一刻も早く天皇の外祖父になり、摂政として君臨したかったと思われる。 結局、道長は寛弘8年(1011)5月26日、一条天皇の譲位を発議し、6月2日、東宮の居貞親王に即位を要請した。そして、6月13日に居貞が即位すると(三条天皇)、敦成が東宮になった。藤原行成の日記『権記』によれば、一条天皇は譲位を決意したのちも、なんとか敦康を東宮にしたいと望んだそうだが、行成は「道長の意を損ねたら敦康も不幸になる」と言って諭したという。その忠告は、当時の政治状況を考えれば的を射ている。 ちなみに、平安時代に皇后および中宮が産んだ第一皇子で東宮になれなかったのは、敦康を除けば、4歳で早世した白河天皇の皇子、敦文だけだったという。敦康はいわば例外中の例外に追いやられたわけで、本人も、一条天皇も、育ての親である彰子も、さぞかし悔しかったことだろう。 その代わりに、敦康親王には経済的に手厚く援助することが決まった。その後、敦康は政争から離れて風雅の道に生きたが、残念ながら長くは続かなかった。異母弟の敦成親王が即位して(後三条天皇)2年余りのち、寛仁2年(1018)12月に発病して亡くなった。享年はわずか数え20歳。自分の意志はなんら示せないまま、周囲のどろどろした思惑に翻弄され続けた短い人生だった。 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。 デイリー新潮編集部
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