秀吉に邪魔された荒木村重の「野心」
■摂津国で下剋上を果たしていく荒木村重 村重の素性は不明な点が多いのですが、池田勝正(いけだかつまさ)の家臣となると、池田家から妻を娶り、一門衆に準ずる地位を得ています。一時的に池田姓を名乗り、池田二十一人衆に数えられる存在となります。 当初は、三好三人衆と通じて足利義昭を奉じて上洛した信長と対立するものの、降伏し織田方として活動をしていきます。 しかし、池田家中の内部抗争に介入し、義昭派である勝正の追放を主導し、池田家の実権を掌握すると、再び三好三人衆方として幕府と対立します。この時、信長による調停を受け入れて停戦すると、村重は気に入られて織田家の直参となったようです。 その後、織田家と幕府で対立が生じると、織田方として若江城の戦いなどで武功を挙げて、信用を重ねていきます。この頃に主筋であった池田知正を家臣に加えて、下剋上を成功させています。さらに、周辺の伊丹家や有馬家を滅ぼし、摂津一国を任されるようになります。 村重は一代で、摂津国主の地位に上り、一国一城の主という多くの武士が持つ「野心」を達成しています。織田家中でも抜きん出た存在となります。 ■秀吉に脅かされた村重の地位と「野心」 村重は織田家中において、新参者の中でも、明智光秀や細川藤孝(ほそかわふじたか)のように信長に重用された部類に入ります。村重への信用度が分かる点として、光秀が丹波一国を任されるよりも、数年早く摂津一国を任されています。 当初は、領国が摂津という位置にあるため、播磨国の攻略を任されていました。後の方面司令官のような存在かと思われます。 しかし、毛利家攻略の司令官に羽柴秀吉が任じられると、村重はその与力という扱いとなります。村重が地位を格下げされたと感じてもおかしくない信長の方針転換でした。 そして、村重が進めていた調略や交渉は、ことごとく秀吉によって覆されていきます。三木城の別所長治(べっしょながはる)の謀反も秀吉の方針への反発であったとも言われています。 義昭の主導によって信長包囲網が形成されると、織田家の配下にあった信貴山城(しぎさんじょう)の松永久秀(まつながひさひで)などが相次いで謀反を起こします。 村重も攻略中の三木城から突如離脱し、居城有岡城で籠城します。この謀反の理由は明確ではありませんが、信長の方針転換への不満や秀吉への対抗意識という説も言われています。冒頭でも触れたように、村重は通説では有岡城を捨て尼崎城へ逃げて、一族郎党を見殺しにしたと言われていましたが、現在では毛利家への支援要請のために移動したという説が強くなってきています。 村重は1年ほど奮戦しますが、最後は城を枕に討死することなく、再起を図るため毛利家の元に落ち延びます。このように自分の命を粗末にしない点は、「野心」を抱く者の共通点だと思いますが、後世の評価に大きく影響を与えてしまいました。 ■他社に理解されづらい「野心」 村重は出自が不明でありながらも、ほぼ自力だけで摂津一国を支配下に置く存在にまで上っており、信長の評価の高さからも有能であることは間違いないと思います。 それまでの慣習に囚われない「野心」ある行動を見ても、戦国武将としては非常に魅力的です。しかし、最後のその行動一つで評価を大きく変えてしまったと思います。 現代でも、経営者から野心家である点が気に入られ、異例の出世を遂げていく者は多くいます。しかし、組織の窮地において、他人の理解が及ばない「野心」的行動によって、評判を下げてしまう例もよく聞きます。 もし、村重が城を枕に討死していれば、今の評価とは違ったものになっていたかもしれません。 ちなみに、村重が謀反を起こさずに摂津国主として本能寺の変を迎えていたら、どういう行動を取っていたのか興味深いところです。明智光秀も村重と同様に、四国戦略において秀吉との方針争いに負けたことが謀反の理由だとも言われているので、重要なキーパーソンになっていたと思います。
森岡 健司