「日本の家庭の味を出したい」東京の下町で奮闘する、ベトナム人の定食屋
「今日はいつもよりちょっと遅い時間だから、魚が少ないね」 足を止めたのは、ひとかかえもある大きなブリの前だ。いかにも脂がたっぷり乗っていそうだ。やはり店主と笑い合いつつ、3本ほど買い込んだ。 「照り焼きで出そうかな。ぶり大根も、刺身もいいよね」 7つの店を回って、たっぷりと海鮮を仕入れた。注文した品はすぐに店まで届けてくれる仕組みになっている。そして旬の味をすぐさまお客に出す。 「実は、ブリはかなり安く売ってもらいました」 にやりと笑う。なじみだからこそのサービスだ。市場でのやりとりも、取引先との人間関係も、すべて巣鴨の食堂で身につけたものだ。
それに巣鴨では、ズンさんもダンさんもパートナーと出会った。ふたりとも同じように食堂でアルバイトをしていたベトナム人の女性と意気投合し、つきあうようになり、結婚。この秋に子供が生まれたばかりだ。
「夜泣きすると、ちょっとたいへん」 市場に行く日はとくにきついが、家族がいると思うとがんばれる。
つらいニュースも多いけれど
ベトナム人による犯罪が次々と報じられる。ズンさんたちの肩身も狭い。仕事や生活に悪い影響が出ないかと心配にもなる。 「でも、お客さんがときどき声をかけてくれるんです。あなたたちは違うとわかってる、一緒にしないよって」 そんな言葉が励みになる。 ダンさんのほうは、お客の日本人を見ていて感じた気持ちを大切にしている。 「ベトナムと違って、いまの日本人はひとりの人が増えているでしょう。お客さんも近所で一人暮らししているお年寄りが多いんです。だからうちでは、家庭の味を出したいんです。僕たちは日本人じゃないけど、気持ちだけは家族のつもりで料理しようって」 ズンさんとダンさんの当面の目標は、店舗を増やしていくことだ。飲食業にとってはコロナ禍のたいへんな時代になってしまった。不安もたくさんあるけれど、それでもふたりは毎日、朝から晩まで日本の定食をつくり続ける。
室橋裕和(むろはし・ひろかず) 1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。帰国後はアジア専門の記者・編集者として活動。取材テーマは「アジアに生きる日本人、日本に生きるアジア人」。現在は日本最大の多国籍タウン、新大久保に暮らす。おもな著書は『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』(辰巳出版)、『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)、『バンコクドリーム 「Gダイアリー」編集部青春記』(イースト・プレス)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書、共編著)など。