【じつは残酷な伝承】座敷わらしの正体は「口減らし」で殺された子供⁉︎ なぜ幸運をもたらすのか?
圧殺されて、家の中に埋葬された子供の霊といわれる座敷わらし。昔は口減らし(間引き)のために、石臼で押し殺した嬰児を、土間や台所の下に埋める風習があったという。『鬼滅の刃』に登場し、幼少の頃に捨てられたという嘴平伊之助も、猪に育てられなければ、鬼と化していたのかもしれない。無残さを抱え持つ座敷わらしの実像とは、果たして? ■住み着くだけで繁栄を保証? その昔、ある人が、橋のほとりで見慣れぬ2人の少女に出会った。子供ながらも、どこか物悲しげな風情が漂っていたようである。奇妙に思って「どこからきたの?」と問いかけると、「山口の孫左衛門のところから来た」という。それから程なく、孫左衛門の家の主従20数人が、皆、茸(キノコ)の毒にあたって死に絶えた…とのことであった。 冒頭からいきなり奇妙な一文を記したが、これは『遠野物語』に登場する座敷わらしにまつわる物語の一節である。『遠野物語』とはいうまでもなく、民俗学者・柳田國男が著した、岩手県遠野地方に伝わる伝承などをまとめた説話集。その18話に記されているのが、このお話なのだ。 遠野辺りでは、旧家の奥座敷に座敷わらしが住み着くことが、至極当たり前のように捉えられていたようである。多くは女の子あるいは男の子であるが、稀に大人、それも夫婦で住み着く場合もあるとか。夫婦喧嘩の末、片方が家を出て隣家に住み着いた後、片割れが隣家の繁栄ぶりを妬んで家に火を点けた…などの物騒な話(柳田國男著『石神問答』より)も伝えられている。 いずれにしても、大方は、座敷わらしが住み着くことで、その家の繁栄が約束されたものと思われていたようだ。冒頭の孫左衛門の家には家人が20人以上もいたというから、相当な長者だったのだろう。その裕福な家の何が気に入らなかったのかわからないが、座敷わらしが立ち去ったことで、一気に没落してしまったのだ。となれば、座敷わらしとは福の神であると同時に、厄病神としての性格をも併せ持っていたことになる。何とも扱いに苦慮する厄介な存在といわざるを得ないのだ。 ■眼に余るほど口減らしが横行したのは強姦や不義の密通のせい? それにしても、自身では何も手を下さずして住み着いた家の栄枯盛衰を左右するというのは、一体どのような神なのであろうか? 実は、これを「圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊」とみなすのが、柳田國男に情報を提供したことでも知られる民俗学者・佐々木喜善である。 同氏によれば、もともとこの辺りでは、口減らし(間引き)のために、石臼で押し殺した嬰児(えいじ)を、土間や台所の下に埋める風習があったという。こうした子供の霊が度々出没して家人を驚かせてしまったことが、座敷わらし騒動の発端だろうというのだ。 確かに、明治時代に至るまで、生まれたばかりの嬰児を殺すことは、現代人が想像するよりもはるかに多く、日常的に行われていたようである。理由は、不義の密通や強姦などによるものもあったかもしれないが、多くは、飢饉などを起因とする口減らしが目的であった。有効な避妊法や堕胎(人口中絶)の術が見当たらなかった当時としては、生まれた直後に殺す以外、手立てがなかったのである。 その方法は、手っ取り早く口を手で塞ぐことが多かったようだが、それ以外の方法として、濡れ紙を口に当てたり、踏み殺したりする他、前述のように重たい石臼を載せて押し殺すという荒っぽい方法が取られたようである。元禄3(1690)年には「棄児禁止の布令」が、明和4(1767)年には「間引き禁止令」が発令されているが、それこそが目に余るほど口減らしが横行していたことの証である。 ちなみに、当時の死産は10~15パーセント、5歳までの死亡率に至っては20~25パーゼントにも達していたとみられている。あまりにも死亡率が高かったこともあってか、7歳になるまでは人とはみなされず、「神の領域に属するもの」と認識されていたようである。そのため、幼児が亡くなることを「神に返す」と言い表していたとか。裏を返せば、幼児は人としてみなされないわけだから、殺害したとしても、罪の意識は現代人が想像するよりも遥かに低かったと考えられるのだ。 ■福の神への転生を願う人々の思い それにしても、なぜ殺されたはずの嬰児の霊が、住み着いた家の繁栄を保証するというのだろうか? これは何とも謎である。せっかくこの世に生を受けて出生したものの、いきなり殺されてしまったわけだから、恨みを募らせ祟っても良さそうなものである。それにもかかわらず、正反対とも言える福をもたらすというのは、一体どういう理由からなのだろうか? ここで思い起こされるのが、『記紀』に登場する蛭子のことである。国土創生の神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が夫婦のまぐわいをした後、最初に生まれてきたのが「骨のない水蛭に似た醜い水蛭子」であった。障害を持った子ゆえに、葦舟(あしぶね)に乗せて流してしまったという。何とも無慈悲としか言えない話であるが、その流れ着いたところとされる神戸市兵庫区和田岬周辺では、いつの間にか福の神・恵比寿として祀るようになったのである(西宮神社)。 無慈悲にも流された(つまり殺された)嬰児は不運だったとはいえ、まだ人としての感情が芽生えていなかったが故に、恨みの感情さえ抱くことがなかったからと思われていたのかもしれない。それでも「生き延びたかった」という思いだけは、嬰児といえども強かったのだろう。その思いが霊となって浮かび上がってきたと考えられなくもないのだ。 『記紀』の時代に未知の世界からやってきた奇しき神を福の神とみなしたように、近世に到るまで、奥座敷に現れる嬰児の霊をも福の神とみなしたいとの願いが、座敷わらしの説話となって語り継がれたのではないだろうか。 ちなみに、『鬼滅の刃』には、嬰児殺しのシーンは登場しない。臨月を迎えた継国縁壱(つぎくによりいち)の妻が、腹の子共々鬼に殺されたことぐらいか。鬼の首切りの残酷なシーンはふんだんに盛り込んだものの、さすがに嬰児にまで、直接手をかけるシーンを描くことはできなかった。いうまでもなく、現代人の感覚からすれば、それはあまりにも残酷すぎるからである。しかし、飢餓に喘いでいた江戸時代の人々にとっては、自らが生き延びるための止むに止まれぬ行為と捉えられていたのである。
藤井勝彦