「大友宗麟」は日本国に並ぶ「BVNGO国」の国王だと錯覚した海外諸国の「勘違い外交劇」
豊後のキリシタン大名、大友宗麟。 日本史においていわゆる「天下統一」に貢献したわけでもない九州の一大名だった大友宗麟は、海外諸国から、日本と並立する「BVNGO」国の国王と錯覚されていました。 【画像】ドイツに残されている、大友宗麟が描かれた絵画 テレビ番組『歴史探偵』(NHK総合)の「戦国ご当地大名シリーズ 大友宗麟」に出演した鹿毛敏夫さんの著書『世界史の中の戦国大名』では、大友宗麟を大権力者と勘違いした海外諸国の勘違いにもとづく外交劇が解明されています。 【*本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』から抜粋・編集したものです。】
九州統一政権として見られた「BVNGO」
16世紀半ば、明から派遣された蒋洲と陳可願が倭寇取り締まりを要求しに五島から松浦、博多を経て豊後に廻り、豊後で大友氏と会合した時期の日本のようすを描いた西欧人の地図では、例えば、ポルトガルのイエズス会士ルイス・ティセラ(テイシェイラ、Luís Teixeira)は1595年に作成した日本地図で、本州部分をIAPONIAとし、九州全体をBVNGO(豊後)と表記し、また、オランダの地理学者ペトルス・ベルチウス(Petrus Bertius)も1610年作成のアジア図で、本州部分をIapanとし、九州全体をBungo(豊後)と記している。 つまり、16世紀後半の日本に接近した西欧人は、九州全体をIAPONIA(Iapan)国に並立するBVNGO(Bungo)国と錯覚して認識していたのである。 さらに、本書第2章でも述べるように、天正7(1579)年以前に大友義鎮(宗麟)はカンボジア国王と「金書」「貢物」を授受する善隣外交関係を構築しているが、その「金書」(カンボジア国王書簡)のなかでも大友義鎮(宗麟)は「日本九州大邦主」と呼ばれている。 大内―大友連合の成立を機に始まった豊後大友氏の黄金時代が、実質的には第1・第2ピークあわせてもわずか15年の期間にしかおよばないものの、接近した外国勢力の目には九州全域に勢力を拡大した九州の統一政権に見えていたのである。 倭寇禁圧宣諭のために訪れた鄭舜功と蒋洲の2人ともに、日本のなかで主に豊後に滞在して大友義鎮との交渉に最も力を注いでいること、さらに、『日本一鑑』窮河話海巻九によると、鄭舜功は当主大友義鎮のみならず臼杵鑑続(うすきあきつぐ)、吉岡長増など、加判衆(かはんしゅう)と呼ばれる当該期の大友政権中枢の奉行人7名とも交渉を重ねている。中国の明王朝側からも、大友氏が九州島各地に盤踞(ばんきょ)する日本人倭寇を制御しうる実質的な九州の支配者と見なされていたことがわかる。 統一権力をもたない地域分権の時代とも言える日本の戦国時代において、その地域公権を担った各戦国大名のなかでも、大友義鎮(宗麟)や大内義長のように環シナ海域の一角(九州や中国地方)に領国を有し、大船を建造する技術と財力をもち、さらに直轄水軍を軸に領国沿岸の海上勢力を組織しうる政治力と軍事力を保持した人物は、明政府からは、倭寇組織のうちの日本側構成員を統轄・制御しうる最上級首領と見なされていたに違いない。 * 海に出たらやりたい放題!? 「王」を名乗って勝手に外交? ? 鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』では、日本史だけではわからない戦国大名たちの野心あふれる海外進出が活き活きと解明されています!
鹿毛 敏夫(名古屋学院大学国際文化学部教授)