【内田雅也の追球】背番号に負けるな。
プロ野球で背番号「18」がエースナンバーと呼ばれるようになったのは戦後である。1958(昭和33)年、巨人・藤田元司が中尾碩志から「18」を譲り受ける際「これはエース番号だ」と言われた。後に堀内恒夫……菅野智之と継がれた。 草創期に「18」で活躍した投手はタイガースの若林忠志だった。36年の初年度からつけ、通算237勝(うち「18」で175勝)をあげた。エースナンバーの嚆矢(こうし)は若林と言える。 9日、大阪・梅田のリッツ・カールトン大阪であった阪神の新人選手入団発表会に出向いた。背番号が正式発表となり、ドラフト1位の伊原陵人(NTT西日本)は「18」を背負う。「エースナンバーに恥じぬよう」と語っていた。ひな壇に立ち、まばゆい照明を浴びて殊勝な抱負である。 「18」がエースナンバーと言われだした56年、阪神新人でその番号を背負ったのは井崎(旧姓・前岡)勤也だった。新宮高(和歌山)時代「砂塵(さじん)が舞った」と称された速球で甲子園で活躍した左腕。当時破格の契約金700万円で入団したが、周囲の期待に押しつぶされた。卒業式出席後、夜行列車で早朝に着いた天王寺駅で当日のオープン戦予告先発を知った。急ぎ甲子園に向かい、四球連発。指導法に戸惑い、通算1勝で引退に至った。「僕はモルモットだったんだよ」と本人から聞いた。「18番に勇んでいた。金の卵が壊れる典型だった」 村山実が2度目の監督に就いた87年オフ、ともに高校出2年目の真鍋勝已(現NPB審判員)を「57」から「20」に、嶋尾康史(現俳優)を「52」から「47」に強引に変えた。「背番号は選手の顔や」はその通りだ。だが、まだ1軍登板のない19歳に「小山正明さんのように」と「47」を仕向けるのは無理があった。 春夏の甲子園で躍動した今朝丸裕喜(報徳学園)の「28」には同じく高卒入団の江夏豊を思う。木下里都(KMGホールディングス)の「54」は今もランディ・メッセンジャーの記憶と重なる。 前途あるルーキーに言いたい。「背番号に負けるな」。周囲の郷愁も期待もあるが、その数字を自分のものにしてほしい。3桁番号の育成選手も負けるな。2桁や1桁への道はちゃんとある。 球団創設90周年を飾るルーキー9人(ナイン)へのエールである。 =敬称略= (編集委員)