「悔しかった。焼酎の限界を感じた」ウイスキーメーカー・嘉之助蒸溜所の挫折と挑戦
スコットランドのウイスキー蒸溜所を初めて見学し、衝撃を受ける
10歳で後継ぎになると決意した小正氏は、そこから何を勉強したら良いか逆算し、まずは酒造りの理論を学ぼうと考えた。そして高校卒業後、醸造科のある東京農業大学へ進学。 東京農業大学には、小正氏のように実家が酒造りを営んでいる学生が多くいた。日本酒や味噌、醤油など、さまざまな蔵元の子どもなど、同じ境遇の学生たちと接することが刺激になり、学びの幅も広がったという。 「蒸溜酒や焼酎、日本酒、ワイン、ウイスキーなど、お酒全般に加え、発酵の仕組みなど幅広く学びました。新しいアイデアもたくさん浮かびましたね。例えば、日本酒やワインの酵母を焼酎に応用したらどうなるかなど、学ぶことで試したいことが増え、酒造りへのモチベーションが上がるきっかけになりました」 こうして大学で得た知識は、実家に戻ったあとの商品開発にも生かされる。小正氏がのちに嘉之助蒸溜所で造ることになるウイスキーと初めて出会ったのは、大学3年生のときだ。海外旅行で訪れたスコットランドの蒸溜所で、その光景に衝撃を受けたという。 「建屋も製造設備もクラシカルで趣があって、日本の酒蔵とは全く違う印象でしたね。とにかく感動しました。そのときは、ウイスキーを造ろうという発想よりも、焼酎造りにどう応用できるかを考えていました」
品質は高いが、取引できない。悔しさからウイスキー造りを決意
正式にウイスキー造りを始めたのは、それから10年以上が経った2014年。それまでは焼酎一筋で、ウイスキーは考えてもいなかった。きっかけは「悔しさです」と小正氏は語る。 「大学卒業後は、小正醸造で品質管理や生産管理、商品開発などを行ってきました。とくに造った商品をどう伝えるか、どう届けるかが非常に重要だと思っており、国内だけでなく海外にも輸出しながら販売活動に力を入れてきました。しかし海外では、焼酎を飲んだ経験がない人がほとんどで、なかなか受け入れてもらえませんでした。焼酎は日本では食中酒として親しまれていますが、海外にはその文化がないのです」 そんな試行錯誤の中、スコットランドの商社から、樽熟成焼酎「メローコヅル」に興味を示す連絡が入った。 「メローコヅルは、祖父の嘉之助が焼酎の価値を高めるため、ウイスキーやブランデーの樽熟成の概念を取り入れて1957年に開発した日本で初めての樽熟成焼酎です。スコットランドに行き、テイスティングしてもらうと『まさにウイスキーのような味わいだ』と高く評価してもらいました」 しかし帰国後、期待していた注文は来なかった。問い合わせると、「品質はとても高いが、やはり焼酎というものを受け入れるのが難しいので取引できない」と。 「非常に悔しかった。焼酎の限界を感じてしまったんです」 そこで、小正氏は「自分たちの焼酎造りの技術を、世界共通言語であるウイスキーに生かそう」と決意する。 しかし、当時日本でウイスキー造りを行っているのは大手メーカーのサントリーやニッカが主流で、全国でも数社しか存在していなかった。 「ウイスキー造りには免許が必要で、鹿児島税務署の酒税課に相談に行ったのですが、『ウイスキーは寒いところで造るもので、南国の鹿児島で造れるわけがない』と担当官に言われ、免許の申請を出しても突き返される始末でした」 「諦めてほしかったのでしょう。でも、私は諦めませんでした」 そこから度重なる交渉を経て、ついに事業を推進する認可が下りた。