衆議院補欠選挙でも問われる「1票の格差」 裏金事件の「政治とカネ」問題だけじゃない、もう一つの注目点
■ かつて衆院では4.99倍、参院では6.59倍も 投票の価値に差のない、本当の意味での1人1票を実現するには、人口の増減や移動などに目配りし、選挙区の線引きをどうするかという「区割り」を速やかに見直していく姿勢が欠かせません。ところが、戦後の日本は衆院も参院も長くその努力を放棄していました。 戦後最初に投票された1946年の衆院選では1票の格差は1.5倍でしたが、高度経済成長によって都市部への人口集中と地方の過疎化が同時並行で進むようになると、この格差は次第に拡大。衆院では中選挙区時代の1972年の選挙で、その差がピークに達しました。 千葉市や市川市などを中心とする「千葉1区」(定数4)の有権者数は全国で最も多い約39万人だったのに対し、兵庫県の豊岡市や周辺郡部で構成する「兵庫5区」(定数3)は最少の8万人弱。その差は4.99倍となったのです。 参院でも1票の格差は広がっていきます。1962年に4.09倍となって4倍を超えると、1970年代には5倍以上が当たり前に。1989年にはついに6倍を超え、1992年には過去最大の6.59倍となったのです(当時、有権者の最少は常に鳥取県でした。のちに同県はやはり有権者の少ない島根県と一緒に1つの選挙区を構成することになります)。
■ 地方地盤の自民党は是正に消極的だった こうした格差を問題視する考えは早くから関係者の間に浸透しており、有権者数と議員定数の不均衡問題はしばしば新聞で報道されていました。長く政権を握ってきた自民党は地方を地盤としており、是正に消極的な姿勢が批判の対象になっていたのです。 そして1962年の参院選で格差が4.09倍になった際には、東京都内に住んでいた当時30歳の司法修習生が「鳥取選挙区では有権者18万人に議員1人だが、東京選挙区では実に74万人に1人だ。この4倍もの格差は憲法の定める法の下の平等に反しており、選挙は無効だ」と訴えたのです。これが一票の格差をめぐって選挙の無効を求める最初の訴訟となりました。 一審の東京高裁は4倍の開きがある現実を前に「この程度の不均衡ではまだ平等の原則に反するとは認められない」として訴えを退けましたが、その後、一票の格差をめぐっては選挙のたびに弁護士グループらが「憲法違反であり、選挙は無効」として訴えていくことになります。 しばらくは提訴しても「定数是正は立法府の問題」という判決が続きましたが、1972年の衆院選をめぐって司法判断が大きく動くことになりました。