「ご存知!? シャフトのライラック号」。浜松の廃業バイクメーカー丸正自動車製造の足跡をたどる
先輩、本田宗一郎さんとは違う発想で造る
わずか6台ながら、試作車タイガーの完売に気をよくした伊藤は、本格的なオートバイ製造に着手。ライラック(伊藤の藤=英語名で「ライラック」に由来)第1号車であるMLの生産を決断した。1951年には社名も丸正自動車製造へと改称し、オートバイ製造を本業とするべく舵を切ることとなる。 同社のモデルの特徴は、第1号のMLから一貫していた。すでにオートバイ製造を開始していた旧知の先輩で、後にホンダを創業した本田宗一郎の考えるものと異なった構造のモデルを作ることだったという。 そのひとつが、ML型から最終型まで続いたシャフトによる後輪駆動であり、エンジンはドイツのBMW・R25に範を取ったOHV単気筒に始まり、サイドバルブ水平対向2気筒、ドイツ・ビクトリアのベルグマイスターを参考にした縦置きV型2気筒を採用するなど、国内の1950~60年代のオートバイ業界の中にあって、技術的にも高度で独創的なモデル作りに邁進していった。 今や縦置きVツインを代名詞とするイタリアのモトグッチ(縦置きVツインの初採用は1965年のV7から)よりも早く、ライラックはこのエンジン型式を採用していたことになる。 独創性の最初の華が、1953年に登場したベビーライラック(JF)だった。これにより丸正自動車製造は世間の注目を広く集め、同年に本社機能を浜松から東京に移転。さらに販売を拡大していく。そして1955年の第1回浅間高原レースでは、ライラックSY型(空冷4スト単気筒OHV:242cc)ベースのレースマシンで優勝。実力と知名度を高めていった。 ■丸正自動車製造の量産オートバイ第1号車、ライラックML(1950) 空冷4サイクル単気筒OHVの148ccエンジンを、ダブルクレードルフレームに搭載。チェーンの耐久性が低かったこの時代に、シャフト駆動を選択したのもライラックのこだわりだった。最高出力3.3hp/4000rpmで、変速は2段。 ■ベビーライラックJF(1953年) ヘッドライトまわりと燃料タンクを一体化したデザインや、女性が乗ることも考えシート高を低くするための独特なフレーム形状などで好評を博した。空冷単気筒OHV2バルブの88ccエンジンで、3.2ps/5500rpmを発揮。