「ご存知!? シャフトのライラック号」。浜松の廃業バイクメーカー丸正自動車製造の足跡をたどる
苦境の中で続けた新車開発と、完全な終焉
その後も縦置きV型2気筒車、LS18、LS38、CF40など各種モデルをリリースするが、浜松や中京地区では、1955年を過ぎたころより経営基盤の脆弱なオートバイメーカーから徐々に淘汰され始めていった。 将来を見据えて、欧州から高価な工作機械を買い入れ、さらに技術と量産性を成長させたのがホンダを始めとする後の大手メーカーだったが、丸正自動車製造はエンジンの自社製造以外は、周辺メーカーへの依存度が高いままで、そこが弱点となった。 その半面、伊藤社長は宣伝プロモーション活動に傾注し過ぎたとも言われた。そして同社倒産の決定打となったのが、近未来モペットAS71での、新三菱との業務提携と突然の解消などだった。この案件に期して多くの投資を行った丸正自動車製造は、経営の体力を失い、1961年にはついに倒産を余儀なくされた。 しかし、同社は会社再建を期し、1962年には旧知の間柄だったホンダの本田宗一郎の力添えもあって和議申請が行われ、裁判所の認定後にオートバイの製造を再開。しかしその再起は、丸正自動車製造が思いのままにできるものではなかった。ホンダの下請け会社として再出発するという条件付きだったのだ。だが、同社は下請けの仕事よりも、新型車開発を推し進めた。 水平対向2気筒のBMW・R50を範に取ったR92がその尖兵で、今後は国内も高速化時代、そして海外にも販路を求めることが重要との判断での、再起を賭けたモデル製造だった。 1964年には社名を株式会社ライラックに変更し、同年にR92を発売。494cc水平対向2気筒エンジンは最高出力35.6psで、最高速度160km/hを公称した。 続いて輸出向けに性能アップを図ったR92(輸出名マグナム)、次いでセル装備のR92(輸出名マグナム・エレクトラ)も1966年にリリース。北米市場への本格的な進出も目論むものの、そうした間にも国内の協力企業の間でライラックへの不信感は増幅され、資材の調達もままならない状況が加速。 結局ライラックブランドは、最後の奮闘も虚しく途絶え、1967年にオートバイ製造から完全に撤退することとなったのだ。 まとめ●モーサイ編集部・阪本 写真●八重洲出版アーカイブス