結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか
結局、「本来性」に則った生き方とは?
Q: キリスト教を下敷きにはしているけれど、とくにその「信仰」は前提としない一般的な話になっていると。 A: さっき「各自はそれぞれが『自分だけの』現実に直面しているのであって、現実問題として、その『現実』に対応することができるのは私以外にはいない」という話をしたでしょう。それをあなたは「シビアな現実認識」とおっしゃいました。 でもシビアというより重たいんですよ、こうした「現実」に直面させられていること自体が。だからこの重荷から「逃避する」のが、非本来性の根本的な意味なんです。 なにごとでも、判断は他人に委ねた方が楽でしょう? 組織に所属していれば、「上」の命令に従っていればいいわけだし。もちろん、それですべてがOKだというのは幻想にすぎないのですが、あまりにも自分という存在が「重い」ので、そういった気休めに、ついしがみついてしまう。これが「非本来性」、つまり他者に埋没した「ダス・マン」というあり方です。 Q: 非本来性はまあそれでいいとして、「本来性」に則った生き方は、結局どうなるのですか? A: 今言った非本来性の逆の生き方です。自分だけの現実に直面させられているというその重荷をきちんと真正面から引き受けること。「ひと」に判断を委ねるのではなく、自分のあり方を自分で責任をもって選択していくこと。「おのれ固有の存在を気遣う」とハイデガーが言うのはそのことです。キリスト教だと「神に忠実に」というところが、ハイデガーでは「自分の存在に忠実に」──となるわけです。 Q: じゃあ、結局は「俺様は正しい」。俺様バンザイみたいになっちゃう? A: それは短絡してますよ。先ほどお話しした、「自分」、「私」の本質を思い出してください。自分だけの現実に直面させられて、自分の責任でおのれのあり方を選び取っていかなければならない、というのが「私」の本質でした。だから「自分の存在に忠実に」とは、今述べたような自分のあり方を直視して、そこから逃避しないことになるわけです。 思い切って言うと、孤独であることを恐れないというか、孤独を引き受けるという感じでしょうか。「嫌われる勇気」、というと言い過ぎかな。でもまあ、ひとに嫌われることは確かでしょう(苦笑)。 Q: それで思い出したのですが、『存在と時間』が出版されたのが1927年でした。第1次世界大戦で、人類は初めて大量死を経験した。それまでは科学万歳、人類の進歩万歳でやってきたのが、それがとんでもない間違いだったことに初めて気づいた。それまで前提にしていたものがすべてガラガラと崩壊してしまった…。つまり、今現在のわれわれの「感度」が生まれた時代だったのですよね。 A: よく大戦間のこの時代は「不安の時代」と言われます。こうした「気分」の中からファシズムやナチズムが生まれてきたことも、しばしば指摘されるところです。『存在と時間』でハイデガーが「不安」を分析しているのは有名ですが、まさに「不安」とは、ハイデガーによれば日常的世界が崩れ落ちて無意味になってしまった、寄る辺ない「気分」とされています。 Q: そういう時代の「気分」に、ハイデガーが投げかけた「正しい生き方」への問いかけが「刺さった」のでしょうね。 A: まさにそうだったんです。第1次世界大戦後にそれまでの国家体制は崩壊し、キリスト教の無力も露呈され、「西洋の没落」が意識されるようになった。ハイパーインフレでお金の価値がなくなるということもあった。 先ほどあなたがおっしゃったように、人々がそれまで信頼していたものすべてが崩れてしまったわけです。これまで「ある」と思っていたものが、実は「無」でしかなかった。一体「存在」とは何を意味するのか──そう捉えると、ハイデガーの「存在の問い」は、それ自体が生の新しい基盤を求める切実な問いだったことがわかります。 * 【つづきの「意外と知られていない…『存在と時間』が「時間」をちゃんと論じていない理由」で、結局、ハイデガーの言う「存在」とは何だったのか、に迫ります! 】
轟 孝夫(防衛大学校教授)