結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか
ハイデガー研究者は「秘教集団」?
Q: 日本人の場合、通常、翻訳で読むわけですが、言葉の問題も大きいのではないでしょうか。 A: おっしゃる通りです。インド=ヨーロッパ語族に属するドイツ語と日本語ではまったく言語としての「システム」が違います。あとでお話しする「存在」という概念も、日本語で通常、私たちが考えているものと、ギリシア以来のヨーロッパでの認識とでは、実はかなりずれがあるので、そのことも理解を困難にしているかもしれません。 Q: すると、日本語に訳すのは相当に難しいでしょうね。 A: とくに日本のハイデガー学者の場合、ハイデガー独自の術語に引っ張られて、ハイデガーの翻訳だけでしか用いられない、本来、日本語にはない訳語を作ってしまいます。そして今度はそうした訳語が「定訳」として固定され、その訳語の使用がハイデガーに忠実であることの証明みたいになる。それでハイデガー研究者といえば世間から、変な言葉を振り回す秘教集団のように見られてしまうのです。 Q: もともとドイツ人にだってわかりにくいのに、翻訳で読むと、さらにこんがらがってくる。まさに日本人にとっては二重苦です(笑)。 だからまず轟さんの本(『ハイデガー『存在と時間』入門』)を読んで、ハイデガーが言いたかったことへの理解を深めてから本体の『存在と時間』を読んだ方が、一般人にはぐっとわかりやすくなる、ということですね? A: それでは本の宣伝ですよね(笑)。でも自分としては、一度、ハイデガーが何を言おうとしているのかに立ち返り、できるだけわかりやすい日本語で語るよう精一杯務めたつもりです。その上で細部の議論にこだわりすぎることなく、全体の議論の筋道というか構造を示すことに重点を置いたので、拙著をお読みいただければ、『存在と時間』の議論がすっきりと見通しやすくなると思います。
なぜハイデガーは「人間」を「現存在」と呼ぶのか
Q: では本題に戻りましょう(笑)。言葉遣いの難解さの1つの例として解説していただきたいのですが、『存在と時間』でハイデガーは「人間」のことを「人間」とは呼ばずに「現存在」と呼びます。でも、なぜ「人間」ではいけないのですか? A: 「人間」というと、あの人もこの人も「人間」ということでは同じになってしまうでしょう? でもハイデガーに言わせると、人間にとって本質的なことは、「私」と「あなた」、「彼」、「彼女」がそれぞれに、絶対的に異なった存在であることなんです。 つまり各自はそれぞれが「自分だけの」現実に直面しているのであって、現実問題として、その「現実」に対応することができるのは、私以外にはいないわけです。 Q: それは個々人にとっては、またずいぶんとシビアな「現実」認識ですよねえ。救いがないというか。 A: たしかにそうとも言えますが、自分がそのときそのときに置かれている状況をよく胸に手を当てて考えれば、われわれの日々の生き方というのは、そもそもそういうものでしかありえないのではないでしょうか。 例えば何か困ったことがあるとき、ある人に相談して、その人から「こうしたら」とか「ああしたら」とアドバイスを受けることがありますよね。でも、結局のところ、やはりそれは「私自身」の問題であって、いかに親身に相談に乗ってくれたとしても、その人の問題ではないでしょう? 他人には、私が置かれているほんとう状況はわかりません。助言されたことをするかしないかも私次第、またその結果も私が引き受ける他はないですから。 Q: だったら単に「私」と言えばいいのではないでしょうか。 A: 「私」を他の人ではない「私」たらしめているのは何でしょう。自分固有の状況に直面して、その中で自分のあり方を選び取っていくこと、そしてその繰り返しが「私らしさ」を形作っていくのではないでしょうか。単に「私」と言うだけでは、あたかも「私」という実体がすでに存在しているかのようで、今述べた「プロセス」が抜け落ちてしまわないでしょうか? ハイデガーは何よりも、われわれがそれぞれ自分固有の「現場」をもっている点を強調したかった。それで、「現」―存在と言うわけです。