クィアパルム受賞『ジョイランド』が描く家父長制の苦しみ。「男性に必ず幸福をもたらすわけではない」
「家父長制とは誰の得にもならないシステムです」
―パキスタンのみならず、世界中でトランスジェンダー差別が激化する中、トランスジェンダーへの暴力や偏見、差別を内包した本作を描いたことにはどのような思いが込められているのでしょうか。 サーディク:この映画をつくったのは、世界の状況が一向に変わらないから。トランスジェンダーの人々だけでなく、家父長制のなかで生きるあらゆる人々がこの映画を観ることで、ポジティブな影響が生まれることを願っています。 特に男性たちがどれほど自分が家父長制に苦しめられているかに気付いてくれると嬉しいですね。なぜなら、男性が自分の苦しみに気付けば、周囲の女性やトランスジェンダーの人々に対し共感を示すことができるからです。 サーディク:多くが理解しているように、家父長制とは誰の得にもならないシステムです。男性に権力を与え、多くの利益をもたらすように見えても、必ずしも彼らを幸福にするわけではありません。そう認識することは社会全体にとって重要であり、健全であると思います。そしてさまざまな女性やトランスジェンダーの人々がスクリーンに登場することで、彼女たちも自分たちと同じ普通の人々であると観客の皆さんが認識してくれることを願っています。
パキスタンの色合いを表現した映像や色彩設計
―夫婦がベッドで語り合うクローズアップ、女性二人がアトラクションに乗るシーン、ハイダルとビバのキスが深く心に残りましたが、映像面で意識したことはありますか? サーディク:多くの登場人物がいるこの作品において、何をどう撮るかは非常に重要でした。この映画の本質は「人々が多くの感情を秘めながら、それを率直に語らないこと」にあります。 登場人物たちは本当に最後の最後まで、本心についてほとんど口にしません。彼らが「大丈夫」と語っていても本当は大丈夫ではないこと、日常生活を続けながら心の奥底で何かが起きていることを観客にどうやって伝えるかが大きな課題でした。 なぜなら、登場人物の多くが、自分は抑圧されているということをまったく自覚していないからです。だから彼らが台詞で「私は抑圧を感じている」と言うのではなく、視覚的にその抑圧を感じさせることが重要だったと思います。 たとえば家族が揃うシーンでは緊張感が漂い、たびたび重い出来事が発生します。映像においても、その状況と同様に緊張感があるものを目指しました。その一方で、あなたが挙げた遊園地やキスシーンなどでは、憂鬱から解放されるような心の動きやロマンスが表現されています。それらの場面ではワクワクするような、流動的なトーンを意識しました。 ―色彩設計も素晴らしく美しかったです。特に赤が鮮やかで、終盤にいくにつれて色味がなくなっていく演出をされていたのかと思うのですが、色彩面でのこだわりを教えていただけますか? サーディク:一般的に映画の色彩をイメージするとき、つねにその題材や内容が考慮されると思います。例えばこの映画は家父長制や抑圧などを題材としているため、色の少ない憂鬱な映像を想像するでしょう。 しかし、私はその反対をいこうと思ったんです。なぜならパキスタンがとてもカラフルな国だから。我々の文化には色とりどりの織物があり、壁や家も色彩やパターンであふれています。その点ではミニマルなイメージのある日本と正反対なのかもしれませんね。 サーディク:なので、私はパキスタンにある空間をできるかぎり忠実に再現したいと思いました。とても抑圧された家なのに、色彩やパターンで溢れているというのは興味深く映ると思います。 終盤では色味が変わりますが、季節が変わったことも理由のひとつです。霧が多いラホールの冬の景色は、それまでの季節とはまったく異なります。そのため葬儀のシーンでは突然、家が色褪せた空間になります。その色合いの変化は、不思議と皆が同じような色を着ているように見え、誰もが同じように見えるという効果ももたらしました。 そのなかで、トランスジェンダーであるビバが、家父長制の家庭にただ歩いて入って来ることが重要でした。葬儀という儀式においては、人はひとつにまとまります。故人の冥福を祈りにきた彼女は、その日だけ受け入れられるのです。 もちろんその出来事が突然ビバと社会を結びつけることはありません。きっと電車などの日常生活では、いまだに彼女は女性たちと一緒に座ることは許されないでしょう。でもその瞬間は女性たちと一緒に座ることに対し、誰も文句を言いません。そこでビバが周囲に溶け合って目立たなくなる様子を、色彩の変化で表現したのです。 ※以降、作品の結末について触れています。ご了承ください。