「ノーベル経済学賞」のアセモグル教授らに反論、国の経済発展をもたらすのは「政治制度」ではない
また、③の周囲の自発的な手伝い、は社会の力であり、これが社会学でいうsocial capitalのど真ん中にあるものだろう。 私がここで強調したいのは④の「ニーズに気づき、システマチックに解決しようとすること」だ。これこそが社会の力である。そして、どこから来るかよくわからない。どういう社会で④が豊かに生み出され、生まれない社会ではどこに生まれない理由があるのか。 さらにクライマックスは、⑤の組織的対応、⑥の現場の具体的な仕組み作り、⑦の担当者レベルの献身を含む対応だ。日本の場合は、一体的に地下鉄の運営会社によって実現されている。これができる民間企業(しかもまもなく上場する)とは、なんと素晴らしいことか。
しかし、これは株式会社の利益最大化となぜ矛盾しないのか。説明の仕方はいくつかある。経済学の授業的には、顧客満足度、世間評判システム、レピュテーション(評判)効果で、そのようなことをする地下鉄運営会社は顧客に支持されて、売り上げが増える、働いてみたいと思う人が増え、いい人材が採れる、もしかしたら寄付が集まるかもしれない、といった具合に説明される。長期的には合理的だ、という議論だ。 そういう道もあるだろう。しかし、私は、これでは味気ないだけでなく、事実として正しくないと思う。
教科書のケーススタディとしては美しいが、おそらく、ペイしない。車いすを助けているから、この地下鉄に乗ると意思決定する人はいないし、だから就職するという人もいない。寄付などもほとんどしない。 しいて言えば、この駅員が、業務ではあっても自分はいいことをした、という満足感が得られ、従業員満足度が上がるということはあると思うが、定量化できないだけでなく、おそらく、その駅員のエネルギーを別の活動、金銭的な収益に集中したほうが、長期的な利益でさえも実際には増えるだろう。
■「形式的な経済合理性を追求しすぎない価値観」を共有 つまり、株式会社の利益最大化とは矛盾し、経済合理的な行動ではないのである。それにもかかわらず、この駅員はやりたいと思うし、この会社も、それはぜひやれと言う。これこそが社会資本があるということだ。 そして、これは、株式会社の形式的な経済合理性を徹底的に追求しすぎない、多少の精神的余裕が駅員にも経営者にも、そして組織にもある、ということから生まれていると私は思う。