「ノーベル経済学賞」のアセモグル教授らに反論、国の経済発展をもたらすのは「政治制度」ではない
⑦は個人の性質にもよるが、社会、コミュニティの雰囲気による。ラッシュが続く新宿区では難しいかもしれないが、それほど混んでない郊外の地下鉄なら簡単かもしれない。さらに、その組織がどこまで時間の余裕を駅員に持たせているかも重要だ。東京メトロが10月23日に上場したら、株主が「1分でも金にならない時間は使うな!」と株主総会では表立って言えないが、内内に訪問して圧力をかけるかもしれない。⑧は、まさにチームワーク、組織文化、そして社会の総力戦である。
■「今ある社会資本」を守り、育てていくことが重要 これでわかるのは以下の4つである。第1に、社会資本にはいろいろな種類がある。第2に、それは意図的に作り出すのは難しそうで、市場メカニズムからは生まれにくいと見込まれる。 第3に、それは社会毎に異なる、さらに同じ国でも部分により異なり、階級ごとあるいは所得階層ごとに異なるコミュニティが成立していれば、そのコミュニティごとに異なり、また同じ国でも時代により異なり、数十年いや10年でも、急速に失われる場合がある。そして第4に、その一方で、ゼロから作るのは難しく、また失われたものを取り戻すのも難しく、今あるものを大事に守っていく、育てていくしかない、ということだ。
経済学の泰斗であった宇沢弘文・東京大学名誉教授によれば、彼が言う社会的共通資本とは、自然環境、社会的インフラ、そして制度資本の3つとされる。 ただ、自然環境と社会インフラはこれまでの経済学やそのほかのところでも十分議論されているし、3つ目の制度資本の議論は重要だが、宇沢氏が例として挙げる医療制度や教育制度は、それぞれの社会の価値観に基づき、工夫して試行錯誤して作っていくしかない、と私は思うから、この三類型以外の社会資本が重要だと考える。
■「株式会社の利益最大化」とは矛盾しないのか? では、前述の①から⑧の社会資本から、上記の宇沢氏の3類型を除くと何が残るか? 社会学でいうところのsocial capital(社会関係性資本)は、①から⑧の中に含まれているが、それ以上に微妙なものがここには含まれており、それこそが重要だと考える。 もう一度上記の車いすの例をみてみよう。まず、①の車いすの入手は経済力と解釈しよう。②の介助は、親族関係あるいは経済力あるいはコミュニティの善意の助け合い、あるいは社会主義的な政府サービス(福祉とか社会民主主義的と言ってもいいが)ということで、選択肢があり、代替が可能である。だから、社会主義か資本主義か、前近代的家族制度か現代か、という問題ではない。どんな制度をとるにしても、社会資本の提供は可能なのである。制度ではなく、その奥にある何かが必要なのだ。