「ノーベル経済学賞」のアセモグル教授らに反論、国の経済発展をもたらすのは「政治制度」ではない
衣食足りて礼節を知るという言葉どおりで、学問的な実証研究でも社会資本と、1人当たり国民所得の相関は示されている。②は、雇える経済力でもいいし、家族というものでもいいし、ボランティアというものもある。徴兵制のように、ボランティアの強制もありうるが、それは社会主義的だ。共産主義なら担当の公務員を作る。これは社会のスタイルにより、さまざまだ。 ③は、その社会の優しさであり、同時に平和で、他人を不必要に警戒しなくて済む社会である。いつひったくりや暴行にあうかわからないような社会では、周りを見渡す余裕はないし、隙を見せたら、別の人にやられてしまうかもしれない。
そもそも車いすで外出しようとすること自体が本人にとって危険かもしれない。一方、乗客全員がスマホだけを見ていれば、車いすの人が降りようとしていることに気づかない、いや乗っていたことすら認識していないだろう。これは別の意味で、社会資本が失われている社会だ。他人に対する完全な無関心である。 重要なのは④の「ニーズに気づいて、これをシステマチックに解決しようとする」だ。これを実現できる社会はそんなにない。日本の場合は、欧州ではこういうのがある、と誰かがプレッシャーをかけたか、駅員がそう思って、社内で上に提案したか、どういうきっかけかわからないが、いずれにせよ、そういう発議が起こる社会はよい社会だ。
すばらしいのは⑤で、これに対応できる余裕が、この組織(企業にせよ政府系にせよ)にあることが重要である。それは、ボスの度量かもしれないし、その組織の文化かもしれないし、その組織の仕組みによるかもしれない。 ⑥はアメイジングだ。全社で対応しなければいけないし、駅間のチームワークも重要だ。DX(デジタルトランスフォーメーション)で、情報だけは飛ばせるかもしれないが、その見込み時間どおりに地下鉄が着かないと、駅員は待ちぼうけを食うことになるし、電車がついてから対応を始めれば、この地下鉄は発車が遅れてしまう。