「書いてはならない」にどう立ち向かうか? 「書けなさ」について考える【後編】
本当の事を云おうか
題名の通り、当時の私生活を赤裸々につづった長編エッセイの一節です。書きたいのに書きたくないこと、書きたくないのに書きたいことは「ほんとうのこと」なのだ、と高橋源一郎は言うのです。 高橋源一郎はそのデビュー時から「現代詩」というジャンルへの愛とリスペクトをたびたび表明してきました。現代詩の文学賞や新人賞の選考委員も務めています。しかし彼自身は、ごく僅かな例外を除いて、詩を自分の表現のフィールドにはしてきませんでした。むしろ自分には詩は書けないと繰り返し語っています。 高橋源一郎は「詩」を書くことを自分に禁じている。このこと自体も大変興味深く、これから考えていきたいことにも深くかかわっていますが、ここでいわれている「ほんとうのこと」ということばが、日本の現代詩人の代表的存在である谷川俊太郎の最初期の作品を案に踏まえていることは間違いないと思います。 何ひとつ書く事はない 私の肉体は陽にさらされている 私の妻は美しい 私の子供たちは健康だ 本当の事を云おうか 詩人のふりはしてるが 私は詩人ではない (「鳥羽1」) 谷川俊太郎が1968年に出版した詩集『旅』収録の連作「鳥羽」の最初の詩、その名高い書き出しです。谷川の「本当の事を云おうか」は、大江健三郎が長編小説『万延元年のフットボール』で言及したことでも有名です。 「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしていたんだ。おれは、ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事を考えてみていた。その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ(…)」と、ある登場人物が言うと、もうひとりが「本当の事をいおうか、と絶体絶命のところで決意する人間はいるだろう。しかしかれは、その本当の事をいったあと、殺されもせず、自殺もせず、発狂して怪物になることもなしに、なお生きつづける方途を見つけだすだろうさ」と応えます。高橋源一郎の「ほんとうのこと」は、明らかに大江も踏まえています。 谷川俊太郎の「鳥羽」は、短い十篇と「addendum(補遺)」から成る連作詩ですが、全編が(詩を)書くことの不可能性をめぐって書かれています。印象的な箇所をいくつか拾ってみます。 言葉で先取りすることのできぬものが 海から私の心へ忍びいる 私の分厚な詩集が灰になる (「鳥羽4」) 書き得ぬものは知っている 書き得たものは知らない 一艘の舟が沖から戻ってくる 舟子は見えない 言葉は風にのらない 言葉は紙にのらない 私にのらない (「鳥羽5」) すべての詩は美辞麗句 そう書いて なお書き継ぐ (「鳥羽7」) 大江健三郎は「若い詩人」と記していましたが、これを書いたとき、谷川俊太郎は30代の半ばを過ぎていました。第一詩集『二十億光年の孤独』の刊行が1952年ですから、デビューしてから十数年経った頃です。谷川も「書けなさ」との格闘において書く、ということを続けてきた詩人と言っていい。しかしホーフマンスタールや高橋源一郎と同じく、その裏側には「だが書けば書けてしまう」が貼り付いていたのだとも思います。 高橋源一郎に話を戻すと、谷川俊太郎がそうであるように、高橋も「ほんとうのこと」を、書きえぬことを、書きたくないことを、それでも書こうとすることをしつこく継続しながら、現在に至っているのだと思います。「ほんとうのことをいいたい」と「でも、ほんとうのことはいわない」に挟み撃ちされながらも、一歩ずつ「ほんとうのこと」に躙り寄っていくこと。最新作『DJヒロヒト』は、昭和天皇とその時代を、彼独自の「技術」と「方法」で語った/描いた/書いた大長編です。それでも「ほんとうのこと」を語り/描き/書き切ったとは言えないのかもしれない。それは誰よりも高橋源一郎本人がよくわかっていることでしょう。ただひとつ言えることは、彼はそれを書いたのだ、ということです。