かけがえのない記憶を泳ぐ ジュリー・オオツカ『スイマーズ』(レビュー)
白尾悠・評「かけがえのない記憶を泳ぐ」
ジュリー・オオツカは声の作家だ。繊細に編み上げられた語りがもたらすそのささやくような声は、時に詠唱、時に多声音楽のように美しく、深い哀しみも小さな喜びも鮮明に映し出す。デビュー作『あのころ、天皇は神だった』と第二作『屋根裏の仏さま』では、それぞれ日系アメリカ人強制収容と写真花嫁という、歴史の大きな物語に隠れた、名もなき人々の声を行間に響かせた。 三作目となる本書で、オオツカは一人の女性とその娘の個人史へぐっとフォーカスを絞っている。本書の独特な構成と語りに最初は戸惑うかもしれないが、読み進めるにつれて変化する声にぜひ耳を傾けてほしい。そこに響くのは人生のかけがえのない美しさそのものだ。 第一章は地下深くにある公営プールで泳ぐ「わたしたち」のスケッチから始まる。断片的な描写がリズミカルに連なって、それぞれの個性と、どこかユーモラスで不思議な共同体のディテールが浮かび上がる。年齢も職業も社会階級も違う、地上ではおよそ接点のない彼らは、このプールではどのレーンで泳ぐか、という属性しか持たない。速いか、ゆっくりか、中くらいか。プールは彼らにとって、地上で背負ってしまった責任や病や悩みをひととき忘れ、自分自身に戻り、自由になれる場所だ。その得も言われぬ解放感を共有するのが、スイマーズなのだ。 続く章は、プールの底に生じた小さなひびに端を発する、スイマーズの揺らぎを描き出す。ひびの存在を受け入れられず、目の錯覚だと思う者や、超自然的な啓示と捉える者、自分の過失かもと罪悪感を覚える者など、人々の反応は様々で、まるで理不尽を前にした人間図鑑の様相を呈する。ひびの原因と対応について専門家たちが大仰な自説を述べ、スイマーズがそれぞれ独断と偏見に満ちた解釈を語るくだりは、ひたすらおもしろい。ひびは消えたり増えたりしながらいよいよ存在感を増し、やがてプールは最後の夏を迎える。 三つ目の章では、語りが「彼女」とその娘である「あなた」へがらりと変わる。「彼女」は前二章でゆるく焦点の当たっていた、「認知症の初期段階にある」アリスだ。彼女が覚えていること・覚えていないこと・忘れないことが輪舞曲のように繰り返され、日系アメリカ人であるアリスの人生と家族の歴史が垣間見える。ささやかな日常の瞬間から、人生を左右する出来事まで、喜びも哀しみも、繊細に掬われた記憶の欠片は、否応なく私たち自身の記憶と呼応する。十数ページ前まで覚えていたいくつかの物事は忘れられ、あるいは別のものに置き換り、彼女たちと共に読者である私たちもまた、記憶の儚さの前に立ちすくむ。 四つ目の章ではオオツカのブラックユーモアが炸裂する。介護施設「ベラヴィスタ」の職員が「あなた」に向けて、設備や暮らしの詳細をセールスマンのように滔々と語るのだが、その内容は、営業トークにあるまじき不都合な現実や痛烈な皮肉に満ちている。例えば介護スタッフは仕事を掛け持ちしている有色人種ばかりだとか、食事や睡眠における馬鹿馬鹿しいほど多様な特別サービスはオプション料金がかかるとか。ここでは入所者の記憶、つまり過去は何の意味もなさず、回復する見込みはなく、緩やかに終わりを迎えるための場所であることが突きつけられる。「あなた」はアリスなのだ。 最終章は、「あなた」とその母アリスである「彼女」の過去と現在がより詳らかになる。作者本人を思わせる「あなた」は深い後悔を抱きながら、次第に記憶を失っていく母親と、一番近くで彼女を支える父親の悲嘆に寄り添う。認知症を前にしたそれぞれの戸惑いは滑稽ですらあり、ひびを前にしたスイマーズのようだ。自分自身に戻れるプールは、永遠にはないのだ。彼女から記憶が失われ、名前が失われ、いつしか声も失われ、長くすれ違っていた母娘の視線は、永遠に一方通行のままになってしまう。描写が淡々と続くからこそ、せつなさが胸に迫り、深い余韻を残す。 私たちの人生は、ひとつひとつの記憶で形づくられている。でも私たちはすべてを覚えていることはできない。そのかけがえのなさ、愛おしさ。本書を読み終えたとき、大切な人たちとの記憶を、楽しいものも苦しいものもくだらないものも、これまでにこぼれ落ちてしまったささやかな瞬間や、忘れてしまった感情、忘れまいとする意志、それでも忘れてしまうという現実ごとすべて、抱きしめていたい、と強く願わずにはいられなかった。 [レビュアー]白尾悠(小説家) しらお・はるか 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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