織田信長は破天荒ではなかった? 東京・永青文庫で新発見の手紙が語ること
細川藤孝(1534~1610)は戦国乱世の行方を決定づけた武将の1人だ。室町幕府の重臣として、最後の将軍足利義昭と織田信長を結びつけ、信長の政権確立に貢献した。その藤孝に「あなただけが頼り」とすがる信長の手紙が、熊本藩主を代々務めた細川家伝来の文物を所蔵する永青文庫(東京)で見つかり、展示されている。室町幕府末期における藤孝の立場が際立つとともに、信長研究の面でも意義深い一通と言えそうだ。 【写真】織田信長の葬儀を描いた「大徳寺焼香之図」 信長は1568年、義昭を奉じて京都に入り、天下統一への動きを加速させた。新発見の手紙は72年8月15日付。信長との関係が悪化して交流を絶った将軍側近衆の中で、藤孝だけが付き合いを保ち、贈り物をしたことに感謝する。畿内の領主たちを味方に付けるよう依頼し、「あなたの働きこそ重要だ」と書き連ねている。 翌73年、義昭は信長に戦いを挑むも敗退し、幕府は滅亡。藤孝は気脈を通じていた信長の支配下に入る。調査した熊本大永青文庫研究センターの稲葉継陽教授は「義昭の挙兵が味方を集めきれずに失敗したことを考えれば、藤孝は幕府滅亡の鍵も握ったことになり、存在の大きさが分かる」と強調する。 ◎ ◎ 細川家に伝わる信長の手紙としては60通目。これまでの59通は全て国の重要文化財だ。手紙からは信長と義昭の関係性をひもとくことができ、そこから信長の人物像もうかがえる。 NHK大河ドラマをはじめとする時代劇では、新時代の旗手となった信長と、その傀儡(かいらい)に甘んじた陰謀家の義昭が敵対する構図を強調することが多かった。ただ「近年の研究で、当初2人が協調関係にあったことや傀儡でなかったことは実証されている」と、大正大の木下昌規准教授(日本中世史)は指摘する。「信長対義昭側近」の構図を示す今回の手紙も、最近の研究動向を補強すると言える。 室町時代を通じて、実力のある大名が将軍の政権運営を支える事例はいくつもあった。信長も高い軍事力を背景に前例を踏襲しようとしていた。「結果的に幕府を滅ぼしたが、元々思い描いていた構想ではなかった可能性がある」と木下准教授。伝統や慣習をものともしない破天荒なイメージとは、少し違った姿が浮かび上がる。 細川家に残る他の手紙も、こうした信長像の更新を補強する。例えば73年3月7日の藤孝宛て書状は、自身と義昭の関係を「君臣」と称している。信長研究者として知られる谷口克広さん(2021年死去)は、著書「信長と将軍義昭」(14年)でこの書状に触れ<「将軍」の地位には、信長をもってしても越えがたい権威があった>とした。 ◎ ◎ 永青文庫では現在、信長の手紙全60通を公開している。期間は1572年から本能寺の変が起こる82年までの約10年間で、ほとんどは藤孝と後継ぎの忠興宛てで、明智光秀宛ては6通、羽柴(豊臣)秀吉宛ては1通。よく知られるものが、戦功を挙げた忠興に与えた感状(戦場での働きを称賛する文書)だ。右筆(秘書)によらず自筆であり、勢いのある筆跡から高ぶった気持ちが垣間見える。 稲葉教授によると、確認されている信長発の文書は約800通あり、永青文庫のコレクションはまとまりの良いまれな史料群だという。歴史上の役割や人物像も含め、信長の姿を多角的に語り伝えている。 (諏訪部真) ◇「信長の手紙-珠玉の60通大公開」は東京都文京区の永青文庫で12月1日まで。