格子の向こうから女たちが声をかけ、客は格子越しに一夜妻を選ぶ──時代劇でお馴染みの「吉原」はどんな町だったか?
吉原を囲う「鉄漿(おはぐろ)どぶ」
日本堤の中ほどには枝ぶりも見事な「見返り柳」、そいつを目印に西へ曲がり衣紋坂を下れば吉原は眼と鼻の先。 一夜の悦楽を満喫し帰途に就いた客は、見返り柳で女を偲び振り返る……。 新吉原は縦が京間尺の135間、横180間の長方形で敷地面積2万8500坪だった。 約265.95×354.6メートル、約9万4305.87平方メートルというサイズは、東京ドームの2倍にあたる。 吉原はぐるりと塀と幅5間(約9メートル)の溝で囲ってあった。この溝は「鉄漿(おはぐろ)どぶ」と呼ばれ、吉原の女たちが吐き捨てた鉄漿のせいで黒く濁っているといわれていた。
女たちの脱走を防ぐ「女切手」
吉原の出入口は北東に構えた大門しかない。 門を入った左には隠密廻りの与力や同心が詰める面番所。ここに役人がいるのは、犯罪者が逃げ込むのを防ぐのと、吉原で発生する事件、事故に対応するためだ。遊郭では無銭飲食から傷害、殺人などなどモメ事が少なくない。 右側には会所、いわゆる四郎兵衛会所がある。こちらでも、吉原ゆかりの面々が人の出入りを見張っている。会所は特に女の出入りに厳しく、町女とわかっていても、いちいち会所が発行する「女切手」という通行証が必要だった。 会所で、ひとりひとりに女切手を渡すという手間をかけたのは、女たちの脱走を防ぐ方便に他ならない。男装して会所を潜り抜けようとしても、遊郭勤めの手練れたちが虎視眈々と眼を光らせている以上、容易に脱走はできない。 もっとも、大門がダメなら塀を乗りこえ溝を渡るという方法もなくはない。事実、鉄漿どぶには9カ所に跳ね橋がかかっていた。だが、こいつはあくまで非常用、わざわざ橋を降ろして逃亡するのは至難の業だった。 八百屋や魚屋、髪結い、荒物屋、湯屋、仕出屋など生活に密着した店々があり、医者に大工、左官などさまざまな職人たちも働いていた。芸人、芸者だってこの町の住人だった。ちなみに、前述した「女切手」は吉原に生きる堅気の女たちにも例外なく適用された。 重三郎の本屋は大門の外、衣紋坂にあったものの、彼もまた吉原に暮らす庶民のひとりとみなしてよかろう。そして、吉原の住人は例外なく遊郭と濃いかかわりをもっていた。もちろん、重三郎も例外ではない。