格子の向こうから女たちが声をかけ、客は格子越しに一夜妻を選ぶ──時代劇でお馴染みの「吉原」はどんな町だったか?
「吉原の女たちの練り歩き」は仲の町で
吉原の街区は整然としていた。 メインストリートは北東の大門から一直線に南西端の水道尻(すいどじり)までを貫く「仲の町(ちょう)」、この大通りを中心として五丁町と称される東西の区画に分かれる。 仲の町には引手茶屋が並ぶ。ここは吉原の女たちの練り歩きをはじめ吉原ならではの数々のアトラクションが行われるイベントスペースでもあった。春先になれば何百本という桜の木が移植され、夜には雪洞(ぼんぼり)を灯すイベントが大人気だった。他にも吉原ではしょっちゅう催事があり、あの手この手で客を呼び込んでいる。 仲の町の西には大門に近いほうから順に江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目。揚屋町は商人街でもあった。東は伏見町、江戸町二丁目、角町(すみちょう)、京町二丁目(新町)という構成になっている。もうひとつ堺町があったが明和5(1768)年、重三郎が19歳のおりに火事となり閉鎖されてしまった。
ランク別で異なる店構え
それぞれの街区には木戸門が設けられ、両サイドに妓楼が軒を連ねた。 妓楼は最高級店の大見世から中見世、小見世の順に格と遊興費が下がっていく。 また、大見世以下は店舗のエクステリアによっても区別されていた。 格子の向こうから女たちが声をかけ、客は格子越しに一夜妻を選ぶ──これは時代劇でお馴染みのシーンになっている。 吉原と女たちのイメージと密接に重なる格子を籬(まがき)と呼ぶ。 大見世は店の入口が天井までの高さの格子で総籬(そうまがき)、あるいは大籬と呼ばれている。中見世になると格子の上部が4分の1ほど開けてあり半籬、小見世は格子が下半分だけで上部は丸見えの惣半籬(そうはんまがき)だった。
大見世から局見世まで
重三郎の青春期、どれだけの数の妓楼があったのかは判然としない。 だが、少し時代の下がった文化8(1811)年のことは式亭三馬が『式亭雑記』に記している。それによると──大見世は8軒、中見世が19軒、そして58軒の小見世となっている。 さらに小見世より安価で安直な妓楼もあった。東端の東河岸と羅生門河岸、西端の西河岸がそれで、狭い路地の長屋に2畳ほどしかない店がひしめいていた。これを局見世(つぼねみせ)あるいは切見世(きりみせ)という。局見世では、年季が明けたものの行先のない者や病気持ちの女たちが性をひさいでいた。 ※本記事は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。 関連記事【NHK大河 “吉原”という特殊な地域に生まれた「蔦屋重三郎」はいかにして「江戸のメディア王」にのし上がったのか】では、「天才・蔦屋重三郎」の波瀾(はらん)万丈な人生について紹介している。
デイリー新潮編集部
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