参勤交代が街をつくった―“街中に出現した街” 東京ミッドタウン
六本木といえば、防衛庁、俳優座、アマンドが、方向を示す定番であった。 しかし今は様変わりし、繁華街の巨大な真空であった防衛庁の跡地は、再開発されて東京ミッドタウンとなっている。
六本木駅に直結した地下道を行くと、大きな白い石に天空の光が降り注ぐ、地下と地上を結ぶ動線のかなめに出る。地上の広場には大きなガラス屋根がかかり、外部から内部へ、内部から外部へと抜けて奥の公園に出れば、安藤忠雄さんの設計になるミュージアムがあり、さらにその奥に毛利家を偲ばせる日本庭園がある。六本木ヒルズにも毛利庭園があるから、関ヶ原で徳川に睨まれ領地を大きく減らしたわりに、毛利は江戸に大きな屋敷をもっていたのだ。 これは、一つの街(タウン)である。近くに位置する六本木ヒルズも、恵比寿ガーデンプレイスも同様で、地下道、エスカレーター、ムービングウォークといったもので、駅から直接プラザへと導かれる。歩車分離というのが近代都市計画の理想であったが、公的な都市計画ではなく民間の再開発によって実現した。本来なら税金で賄うべきものを資本の論理で賄うのだから、ありがたいといえばありがたい。硬直した社会主義が敗退するのも分かるような気がする。また、恵比寿はサッポロビールの関係でドイツ風、ヒルズはスペインやイタリアの街並みを想起させ、ミッドタウンはイギリス風にシック、和のテイストも加わる。このようなスタイルのバリエーションも日本的だ。 東京には、ある日突然「都市の中のさらに囲まれた街」すなわち「街中街」といったものが出現する。そこにどういう仕組みがはたらいているのか、時代を遡って考える必要があるようだ。
小田原攻めのあと徳川家康が関東に入ったのは、秀吉の外交的勝利というのが定説であるが、家康は本気で関東経営に力を注いだ。 城をつくることよりも街をつくることを優先したのだ。 神田台地を削り、日比谷入江を埋めたてて街を広げる。『江戸と江戸城』を書いた内藤昌博士によれば、江戸は江戸城を中心に「の」の字型に拡大した。大手門、和田倉門、半蔵門と進み、内側に家康と親族が住み、周囲に御三家、そして譜代、外様と配置される。そして平川を東に通し、中川の流路を移動して神田川とし、一部を江戸城の外堀とする。 関ヶ原のあと五街道を整備し、その里程の起点を日本橋とする。参勤交代の制度を定め、大名とその家族を交代で江戸に住まわせる。これによって日本列島の人と物と情報と文化が、江戸を中心にネットワークされた。 また関東平野は「坂東太郎」と呼ばれる利根川の平野といってもいいが、徳川政権は、河口を江戸湾から銚子に移すという大々的な利根川東遷事業に取り組んだ。治水とともに農地開拓である。人口が増えるに従って上水が足りなくなるが、井の頭池を水源とする神田上水を整備し、さらに玉川上水を整備する。十八世紀初頭、江戸の人口は百万を超え、世界最大規模となる。 つまり現在の東京を支える都市基盤は、家康と徳川家によって築かれたのであり、これに比べれば、明治以後の政治家たちは何もしていないに等しい。