参勤交代が街をつくった―“街中に出現した街” 東京ミッドタウン
町人が住み着いたのはほとんどが埋め立て地で、山側は武家が占め、さらにその周辺を社寺が占めた。こうして「町人が住む下町」と「武家が住む山手」という構造ができあがる。内藤博士の研究によれば、武家地が60%、町人地が16%、その他は主に寺社地であったというから、町人地の人口密度の高さは驚くべきものがあったのだ。これが長屋の成立を生み、現在の東京の住宅が狭小であることの下地ともなっている。 武家地のうち、区画の大きなものは大名の江戸屋敷(藩邸)である。 参勤交代という制度によって、各大名が江戸にそれなりの公的機能をもつ屋敷を構える必要があったからで、しかも上屋敷、中屋敷、下屋敷などがあり、当時の地図で見ても圧倒的な存在感をもつ。この藩邸の土地が、明治維新後は、官庁、宮家、学校(大学)、軍などの土地となり、その大きな土地区画が今の再開発につながっているのだ。現在の東京は、参勤交代による大名屋敷の上に街がつくられている。もちろんその地中には、全国各地独自の文化が息づいていた。
東京ミッドタウンの敷地のルーツを追えば、江戸時代の毛利藩下屋敷が、維新後に帝都を守る近衛歩兵第一連隊となる。2・26事件のときは主役であった。敗戦後には接収されて米軍住宅となり、返還されて防衛庁となった。そして現在は、資本の論理による再開発で、オフィス、ホテル、ショッピングの複合施設となっている。つまり時の権力の推移に連れて、所有者と空間機能が移っているのである。江戸は、奈良や京都といった皇居を中心とする古代都市とも異なり、主要地方都市を形成した中世城下町とも異なる、独特の都市である。 しかし東京の街並みが歴史的であるとは言いにくい。星霜を経た建築がそのまま残るパリ、ロンドン、ローマ、フィレンツェなどにはとてもかなわない。とはいえ土地のルーツを探れば、江戸時代の土地の構造が続いているのだ。関東大震災や東京大空襲で街が焼けても、都市計画で道路が広がっても、土地の区画と構造はさほど変わらなかった。