なぜ、作家性は守られなければならないのか?──ドラマ『セクシー田中さん』で浮き彫りになった原作者軽視の悲しき慣習
すべての表現者たちのために知っておいてほしいこと
ここまで読んできて、こいつは長々と何を言いたいのかと思われたかたも多いだろう。あえて冗漫な文を綴ったのは、詰まるところ、ひとつのことを言いたかったのだ。 「原作へのこだわりが強くない作家」などいない、と。 弁護士だけで構成された日テレ調査委員会の報告書は、小学館から日テレに、芦原さんは「難しい作家」(原作へのこだわりが強い作家)であるとの発言が初期にあった、としている。それに対し、日テレ側は「こだわりが強い人のほうが良いドラマができると思った」と記されている。 はあ。 上記のことは、表現者を相手にする仕事である限り、出発点であって、お互いに「えー、そうなんですか?」と確認し合う類の話ではない。報告書をまとめたのが弁護士さんだからそこに驚いたのかもしれないが、編集者の感覚では、「難しい作家」と「いいもの、面白いものを書く作家」の、「正の相関関係」はかなり高い。必ずそうだ、とは言わないけれど。 とても物わかりがよく、書き直しのお願いをはじめ編集者の言うことをよく聞いてくれる作家、すこぶる人当たりがよく常識人にしか見えない劇作家も、いなくはない。しかし、そういう人でこちらが唸るような作品を書いてくれる人は滅多にいないのだ。いい書き手は、表記に対する執着だったり、調べることへの異常な執念だったり、書き直しリクエストへの徹底抗戦だったり、編集者として長く付き合っていれば、どこかでその並外れた部分が顔を覗かせてくる。 「難しい」なら、どこがどう難しいのかを感じ取る、あるいは直接会って聞き取るところから、表現者を相手にする仕事は始まるのであり、「こだわりが強い人のほうが良いドラマができると思った」でとどまるのでは、厳しく言わせていただくなら、何も仕事をしていないに等しい。 そのことへの意識づけや想像力(どんなに執着の強い人なのだろう?という推測)が日テレ側にあれば、原作者との面会や話し合いをもっと早期にしたはずであり、原作者から作中に登場するベリーダンスのショーを見に行くことを誘われて、初めて顔を合わせる、という展開にはならなかったはずだ。 小学館の編集者にも、問題がなかったとは言えない。同じ仕事をしてきた者として、理解できる部分もあるのだが。 いちばん気になったのは、小学館が日テレに「原作者の意向」をメールなどで伝える際に、常にその主張を弱めている点だ。双方の関係が相当煮詰まってからも、「一切の変更を許さないということではない」といった留保を必ず書き加えている(小学館報告書31ページ)。 それこそ自己主張の強い作家、学者、ジャーナリストなどを相手に常日頃から仕事している編集者は、どうしても「事を穏やかに運ぼうとする習性」がある。私自身もまさしくそうだった。書き手に本筋に関わる書き直しのようなかなり強いリクエストをする時でも、「必ずそうしていただきたいとお願いするわけではございませんが、ご検討いただければ……」といった留保、あるいは、相手が立腹しそうになった場合の「逃げ」をあらかじめ打ってきた。そうやって、長い間、“猛獣”に近い書き手たちを宥めながら私も仕事してきたのだ。 その「習性」が、今回は裏目に出たと言わざるをえない。日テレ側との関係が厳しくなってからの芦原さんは、「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」は、作家を傷つけることをしっかり自覚して欲しいと求めている。これは、表現者としてなんとか自作を守りたいという心からの「叫び」だ。仲介役たる編集者がその声音(こわね)を弱めてしまってはいけないのだ。 こうした小学館側の一種の「弱腰」が影響したのかどうかはわからないが、日テレ側はこういう状況になっても「ドラマ化の通例」といった言い分を繰り返している。原作者の「叫び」にはまったく思いが及んでいないとしか言いようがない。 さらに、ある段階から小学館側の問題提起は日テレが依頼した脚本家に集中しているように見えるが、日テレ側はそのことにもさほど注意を払っていない。脚本家も、この件に関わるもう一人の表現者だ。日テレ報告書の記述が不十分で事実関係ははっきりしないが、日テレは脚本家を「桟敷の外」に置きながらやりとりを続けた観が否めない。 こうして、どんなに叫んでも、叫び声はまるめられ、日テレ側にもその意を汲み取ろうとする強い姿勢はなく、芦原さんは結果的に双方によって追い込まれていったように映る。なんとか芦原さんを守ろうとした小学館編集者の奮闘は認めるべきだが、小学館報告書45ページでやっと出てくる「一切変更不可」といった強い要求を、もっと早めに突きつけていたら、最悪の事態は免れたかもしれないという思いから、あえて付言しておく。 さらに、芦原さんがこれから生み出したであろう優れた作品が世に出る可能性も消さないで済んだかもしれないという思いからも。