なぜ、作家性は守られなければならないのか?──ドラマ『セクシー田中さん』で浮き彫りになった原作者軽視の悲しき慣習
松本清張さんの映像化への思い
言うまでもないが、「人物」はいきなりすべて描かれるわけではない。エピソードの展開に沿って、ひとりひとりの人物像も、相互の絆や反目など関係性も、少しずつ深まっていく。「『セクシー田中さん』はキャラクター漫画」(芦原さん)であればなおのことだ。「エピソード順番を(ドラマが)入れ替える度に、毎回キャラの崩壊が起こってストーリーの整合性が取れなくなってるので、エピソードの順序を変えるならキャラブレしないように、もしくはできる限り原作通り、丁寧に順番を辿っていって頂けたらと思います」(小学館報告書24ページ)と、芦原さんは遠慮気味にではあるが最初から人物像のブレの発生に懸念を抱いていた。それは、エピソードの順番、すなわち、作家性の残る重要な側面である「構成」の問題に直結してくる。 物語全体の「構成」、一話ごとの「構成」にも、作家性はもちろん反映するのだ。ストーリーを語っていく順番は、どんな書き手もいちばん腐心するところだ。物語の主たる筋に、どこでどのくらい説明的要素を混ぜ込み、伏線はどこに敷き、効果を出すためのフラッシュバックや倒叙(時間的な流れを逆に遡りながら描くこと)をどう使うか、などなど。それらによって、人物造型や登場人物の間の関係性も深めていく。 テレビ局のドラマ制作担当の人たちは、そんなこと分かってるよ、自分たちこそそのプロだよと言うかもしれない。そうだろう。しかし、そのプロたる度合いは、原作者の工夫や腐心を上回っているだろうか。最近、ドラマ制作にあたって「絵コンテ」はあまり描かれないと聞く。逆に、作家の中にこそ、頭の中に絵コンテを思い浮かべるようにして物語を構成していく人は少なくない(ましてや漫画家の芦原さんは、当たり前のようにそれをやっていたかただと思う)。 私が10年にわたり担当した松本清張さんこそ、「絵コンテの描ける作家」だった。もともと新聞社の版下工を務めるほど絵心のあった人だから、というだけではない。いつも頭の中に映像を思い浮かべながら小説を書いていくタイプだったのだ。 その清張さんにして、自作のドラマ化や映画化に満足したことは少なかった。いや、清張さんだからこそ、と言ったほうがいいかと思う。常人では無理と思えるほど睡眠時間を削り、取材と執筆に没頭し、独自の作品世界を描き出した清張さんが、映像化に向ける期待は高かったが、「なかなか満足させてくれないんだよ」と、取材の行き帰りの車中などでよく聞かされた。満足どころか、出来が悪いと不満をぶちまけることもあった。 そもそもの話になるが、松本清張さんは、何よりリアリティに重きを置いた。だから、作中の人物にしろ現場にしろ、頭の中だけで作り出したものは少なく、モデルになりそうな人物たちに会って取材し、ロケハンにも歩いた。「議員秘書を書きたいから、誰か連れてきてくれ」と言われ、その物語に合致しそうな年齢や経歴の国会議員秘書さんを探して頼み込み、浜田山の松本邸に連れて行ったこともある。これはある新聞の連載小説だったが、のちに映画になった。また、国内からスイスやオランダなど海外までロケハンにもお供し、「このあたりを殺人現場にしようか」といった清張さんの呟きを聞きながら歩いた。代わりに海外取材に行くよう言いつけられることもよくあり、そんな時は、訪れた街や飲食店などが「映像のように」伝わるようレポートすることを求められた。現在のようにスマホで写真や動画を簡単に撮れるならよかったが、あいにくそんなものは影も形もない1980年代の話。重い一眼レフのフィルムカメラと手書きメモでなるべく詳しく記録し、帰国後に清張さんに報告した。 そうやって、最初から「映像になるように」取材し書いている作家だったから、実際に映像化される場合のテレビや映画の制作者への注文も細かく、厳しかった。 清張さんが特に大事だと思っていたのは脚本で、「映像化作品の出来の良し悪しは、8割がたは脚本で決まるんだよ」と何度か聞かされた。それはそうだろう、我が子を育てる思いで書き上げた作品も、映像化にあたっては脚本家の手に委ねられる。その脚本家が、作品の世界観や、ここまで述べてきたような表現者のこだわりを理解してくれず、作家の思いとズレた脚本に仕上げてきたら、原作者として満足できるはずがないのである。「テレビ局が、スポンサーの意向でこの場面は省きたいと言ってきたら、必ず聞くんだよ。あんたがたは、ほんとにこの脚本をスポンサーに見せたのかね、と。だいたいみんな返答に窮するけどね」と、清張さんは苦笑いしながら語っていた。 『セクシー田中さん』の原作者の芦原さんは、一切の改変を認めないというところから出発してはおらず、むしろ「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と言えるような改変であれば歓迎すると述べている(日テレ報告書76ページ)。これは清張さんも同じで、自分の作品世界をよく理解した上で脚本家や演出家がそれを上回る描き方をしてきたら有難いとも言っていた。ただし、「そう言えた作品は『砂の器』ぐらいかな」と聞いたことがある。野村芳太郎監督の松竹作品(1974年。脚本:橋本忍、山田洋次)だ。ちなみに、野村さんの清張作品映画化は10本ある。活字になった話としては、『砂の器』に加えて初期の『張込み』(1958年、松竹)、『黒い画集・あるサラリーマンの証言』(1960年、東宝)を、清張さんは原作よりよかった映画に挙げている。 清張作品は、映画化が上記を含む36本、そしてテレビドラマ化に至っては分かっているだけで500本近くが制作されてきた。清張さんが1992年に亡くなって以降も、計100本を優に超える数のドラマが、毎年のように放送されてきた。ひとりの作家の作品の映像化として世にも稀な数である。そのうちどれほどに本人が「満足」し、あるいは「自作以上」との思いを持ったか、その具体数はわからない。私が清張さんを担当していた期間に限って言えば、合格点を得られたものはごくわずかというのが、その当時の感触だった。もちろん、清張作品を何本も手がけ、質の高いドラマを送り出したテレビ局や制作担当者も知っている。 こうした映像化には、ある時期から清張さん自身が関わって設立したプロダクションも制作に加わった。「霧プロダクション」と、のちの「霧企画」の2社である。もともと『黒地の絵』という作品をなんとか映画化したいという思いから会社を設立したわけだが、さまざまな事情で『黒地の絵』は幻の映画で終わり、「霧プロ」は他の作品を映画化していった。その中には、『天城越え』など本人も納得のいく作品があった。自らプロダクションを設立してまで満足できる映像化を見たいという思いを、表現者は抱くのだ。しかし、それには間違いなくお金がかかる。大作家・清張だからこそできたことであり、ほとんどの表現者は、映画会社、テレビ局、あるいは劇団などによって自分の作品が「三次元化」されるのを待つしかない。だからこそ、それら制作サイドが、表現者の思いを「真に深く理解する」ことを、仲介者たる編集者は願わずにいられないのだ。