なぜ、作家性は守られなければならないのか?──ドラマ『セクシー田中さん』で浮き彫りになった原作者軽視の悲しき慣習
「人物」の立ち上げに注がれる熱量
そしてここから、「人物」という、作家性のさらなる根幹に入る。どんな表現者も、人間に関わる物語である以上、独自の人物の造型に「心血を注ぐ」。奇妙奇天烈な人物を作るのはある意味簡単だが、そうではなく、たとえば、どこにもいる普通の人物であるようでいて、何か特別な感性、独自の能力、人知れず抱える事情、そうしたものの上に立つ人格・考え方・行動を、繊細かつ大胆に作り上げていくのだ。過去の名作から人物像を借りてくるような書き手は、作家の名に値しない。私たち編集者も、そうした独自の人物像を「立ち上げられる書き手」こそが優れた作家だと考える。その先に、主人公であれば読者から「正の感情移入」を自然に招きうる人物、敵役なら「負の感情」をいつの間にか呼び起こす人物といった、ストーリー展開とともに具体化していく人物造型が待つ。これがうまくできたら「あとは物語が勝手に走っていく」と、何人もの作家が口にするのを聞いてきた。 ただし、付言しておくと、上に書いたようなこともいわば「類型」の範囲内であり、優れた書き手は、そこからさらにひとヒネリ、ふたヒネリを加えてくる。芦原さんもそこに工夫を凝らしていた観が強い。 だから、自己の能力を最大限発揮したつもりの人物造型を、ドラマ化・映画化・舞台化などで微妙にでも変えられると、表現者はまた「これは自分の書いたものではない」と感じる。特に、「ありがちな人物類型に落とし込まれる」ことは、表現者として許し難いことだ。せっかく「ありがちではない人物」を生み出して描いたのに、それをすっかり振り出しに戻されてしまうのだから。 これは、「番組スポンサーの意向」があったら改変してもいいという類(たぐい)のお話ではない。 日テレの報告書で最も驚いたのは、次のくだりだ。 〈制作サイドにおいて、一本の軸があった方がドラマとして見やすいのではないかという話になり、本件脚本家のアイデアで、女性二人(朱里と田中さん)のシスターフッドものの要素を取り入れ、それを一つの軸にする方向となった〉(日テレ報告書58ページ) これは、どう見ても人物造型に大きな影響を与えてしまうレベルの改変だと思うのだが、それを小学館側や原作者に詳しく伝えて相談したり了承を得たりしたかというと、 〈制作サイドの考えや、そこに至る思考過程をきちんと整理・可視化などし、原作サイドに共有・説明した形跡までは確認できなかった〉(同59ページ) 「形跡までは」って! その「形跡」がなければ、重大極まる改変を、日テレ側が独断で行ってしまったことの動かぬ証拠になるではないか。これが本当だとすれば、信じられないほど気軽に「作家性」は無視されたことになる。(このページの脚注で「口頭のやり取りにおいて」小学館側から確認を貰った云々と、「形跡」を証明できないままでの補足がある)