なぜ、作家性は守られなければならないのか?──ドラマ『セクシー田中さん』で浮き彫りになった原作者軽視の悲しき慣習
ドラマ『セクシー田中さん』の原作者が急死した問題では、日本テレビの拙速なドラマ制作と原作者軽視が浮き彫りになった。では、そもそもなぜ作家性は守られなければならないのか? 松本清張や塩野七生など、著名作家の編集担当を務めてきたジャーナリストの堤伸輔が問題の本質に斬り込む。 【写真を見る】松本清張は、自作のドラマ化や映画化に満足したことは少なかった
「これは作家性のある原稿だから、そのつもりで扱うように」 編集者になって間もないころから、上司や先輩に時おりそう注意された。言われたのはそれだけのことがほとんど。「作家性とは?」と自問しながら、印刷所に原稿を渡すための指定と呼ばれる作業を進めた。 「作家の原稿だから、気をつけて扱うように」ではない。では、どのような人が、どのような思いで書いたものが「作家性のある原稿」なのか。いまあらためてこの問い掛けをしたいと考えたのは、日本テレビが制作・放送したドラマ『セクシー田中さん』が、漫画原作者の芦原妃名子さんの死という、あまりに不幸な結果を招いたことに関し、関係者にこの「作家性」ということについての根本のところでの認識が乏しいのではないかと思えたからだ。5月から6月にかけて、日本テレビと原作漫画の刊行元である小学館は、相次いでこの出来事の「調査報告書」を公表した。それぞれ91ページ、86ページもある詳細な(詳細そうに見える)ものだが、両方を読み込んでも、私には「作家性への敬意」、言葉を換えれば「表現者への共感と思いやり」はどこにも感じられなかった。 この出来事をめぐっては、ドラマ脚本家が、次いで原作者がSNSなどネット上で発信した時点から、数多くの意見が述べられた。「調査報告書」が出たあとも同様だ。その中には漫画家や作家の見解もあった。私も、40年あまり編集者を務めた者として、何がしかの問題提起をすることが責務ではないかと思い至ったのである。
「表記」や「文章」への飽くなきこだわりから始まる
日本テレビの石澤顕社長は、記者会見で「芦原さんが心血を注いで『セクシー田中さん』を作り上げた」と語っていた。そう、多くの表現者が「心血を注いで」作品を書き上げる。中には多枚数生産を旨とするような書き手もいるが、だからと言って心血を注いでいないわけでもない。そして、彼ら彼女らは、実にいろんなことにこだわる。読点を打つか打たないか、改行するかしないか……。「作家性」の主張は、まず「表記」あるいは「体裁」から始まる。 平野啓一郎さんのデビュー作『日蝕』を見てほしい。物語のクライマックスにたどり着くと、「…」(三点リーダー)や「‥」(二点リーダー)が活字にして何文字分も続く。そこに至るまでも「……」や「──」の多い小説なのだが(注・縦組みの原作ではリーダーは「センター揃え」)、ここで堰を切ったように「……何に?……光に、…………」とリーダーが溢れ出し、しまいには何行にもわたってリーダーだけとなり、そして拡散するようにリーダーもまばらとなって、空白の行が続くようになる。そこでページをめくると、見開きの両ページが全面「空白」だ。これは書籍によくあるページ調整のための「白ページ」ではない。本来、活字で埋まっているはずのところが埋まっていないのも著者の「表現」であり、その証拠に170、171とノンブル(ページ番号)もしっかり印字されている。白ページならふつうノンブルは記さない。いきなりこの書物を見せられたら、ひょっとして誤植か、活版印刷の昔なら活字の脱落ではないかと思われるだろう。しかしこれも、どうしてもここに表現として空白を入れたいという、作家のこだわりなのである。 私が担当した塩野七生さんは、『ローマ人の物語』の随所に「行アキ」を入れた。ちょっとした場面転換や語りのペースを変えるために。それが、1行アキだったり、2行、3行アキだったり、バラバラなのである。編集者は「体裁を統一したい習性」をもっている。本の中の近い箇所にさまざまな行アキが出てくると、「塩野さん、これ、1行アキに統一しませんか」と、ローマの塩野さんに電話し恐る恐るお伺いを立てる。ピシャリと言い返される。「なに言ってるの! ここは3行アキだと思ったから、そうしたのよ。私がアキを入れる時は、どのくらいの流れの切れ目かを判断して、1行か2行かもっとかを決めるの。このままにして!」と。 なにもこうした話は、平野さんや塩野さんに限ったことではない。作家も詩人も、時には科学者も、こうした「感性に基づく自己主張」をするものだ。一度話したあとは、こちらもそうした「好み」を覚えておき、尊重することになる。ただ、どんな場合もそのままに、というわけではない。 映画・テレビドラマの脚本家から時代物の作家に転じた隆慶一郎さんの、作家デビュー作『吉原御免状』の生原稿を見たことがある。隣席の同僚が入稿作業をしながら首をかしげていたので覗き込んだのだ。冒頭のところ、 〈かすかに、風が、鳴って、いた。見渡す、かぎりの、田圃に、刈り残された、稲葉が、ふるえて、いる。〉 と、ほとんど文節ごとに読点が打ってある。隆さんの脚本家としての長年の「書き癖」がこうだったのだろう。さすがにこれでは読者にとって読みづらいことになるので、同僚はもう少し点を減らしましょうと提案し、その後、隆さんの作家としての書き方が定まっていった。 逆に、「表記」に対するこだわりのあまりない書き手もいる。あるいは、意識のない書き手と言ってもいいだろう。一般に、作家には「こだわり無し派」は少なく、ジャーナリストなどには結構多い。そういう人だと、ひとつの原稿の中で、同じ言葉を漢字で書いたり平仮名で書いたりしてくる。原則、編集者は表記の統一を図るが、これも「作家性」が絡むと甘く見てはいけない。たとえば、作家の山口瞳さんは、同文中でも意図的に漢字・仮名を使い分けていた。「その中で」と書いたり「なかでも」と書いたりするのだ。もちろん、理由がある。1行ずっと平仮名続きのような文章なら、見た目の「締まり」を生むために意識して漢字を使う。いつもは「すでに」と書いていても、そんな時は「既に」と。 これを編集者が勝手に入稿作業でどちらかに「統一」してしまうと、作家は、ゲラで元に戻してくる。人によっては何も言わずに。あるいは、人によっては作家性への配慮を知らない編集者としての資質を問うような言葉を添えて。 作家性の次なる主張は「文章」である。文章・文体の尊重はイロハのイであり、ここでは詳しく述べない。ひとつだけ、「語尾へのこだわり」を挙げておく。たとえば、「だ」「である」の常体で文を綴ってきて、急に「です」「ます」の敬体にしたり、その逆をする書き手がいる。うっかりもなくはないが、作家性の世界では必ず意図的である。チェンジオブペースによる強調や文のリズムの「締まり」を狙っているのだ。 これは語尾の繰り返しについても同様で、一般には同じ語尾が続くとダルい文章になってしまう。しかし、あえて繰り返すことである種の表現効果を狙う場合があるのはお分かりいただけるだろう。 いわゆる「地の文」でもこうだから、「会話」となると尚更だ。村上春樹さんは、あくまで私の“観察”の範囲においてだけれど、優しいタイプの登場人物に滅多に「~だが、」と語らせない。「~だけれど、」と、同じ逆接ではあっても少しカドのとれた言い方にさせることが多いようだ。 だから、ドラマの中で台詞の語尾をちょっと変えられるだけでも、表現者にとっては、「自分の書き方ではない」と強く思えてしまう。原作者と脚本家という表現者同士でも、いや、どちらも表現者であるからこそ、こうした言葉への感性がぴったり重なることはあまりないと思えるので、脚本家やドラマ制作スタッフは、「原作(の作家性)を尊重する」と言うなら、そういうところにまで想いを至らせる必要がある。 何を大袈裟な、と反論されるかもしれない。そんな時、私はこういうたとえ話をする。「あなたが毎日語りかけながら大事に育てた赤ちゃんが、初めて言葉を発するようになった時、いきなりよその国の言葉で話し始めたら、どう感じますか? あるいは、自分とまったく違う地方の方言を口にし始めたら、驚き、哀しくなりませんか?」と。 すべて原作者と同じ言い方・表現・文体にすべきだと言いたいわけではない。放送の尺の関係で台詞を短くしたいと言っても、表現者のこだわり・主張・好みを見抜いた上で改稿を提案するようにしてほしい、ということだ。村上作品の登場人物がみんな「~だが、」と語り始めたら、村上さんは「やれやれ」という顔をするに違いないと思うから。