「文学」をあきらめたから『あきらめる』が書けた。山崎ナオコーラ×小林エリカ×花田菜々子の鼎談レポ
「差別・暴力はダメ」以外からも問いかける力が文学にはある
山崎:私はデビュー前、「弱い立場からものを書きたい」と考えていました。でも最近は、それだけじゃダメだよな、と思うようになって。 年齢が上がったことで相手から「怖い」と思われる立場になることもあるだろうし、そのつもりはなくてもパワハラの加害者になる可能性もある。だから、加害しているかもってまず自覚しなきゃいけないと思ったんです。 花田:でも、どこをゴールにすればいいんだろう、と悩みますね。「弱い立場だから人を傷つけてもしょうがないよね」「差別が再生産されるのは仕方ないよね」が答えじゃないことはわかっているけれど、個人をいわゆる「私刑」にしたり吊し上げたりしても意味がないし。 山崎:私の場合は、活動家ではなく芸術家としてその問いに向き合いたいので、「差別・暴力って何だろう……?」のままで答えを出さなくてもいいんじゃないかなと思うんです。 花田:小説だから無理にジャッジしなくてもいいんですね。「これはダメです」のもっと先に行けるのが文学の力だと思うんですけど、難しいのは、インターネット上の反射的な思想が日常にまで浸透してきて、不適切な行動に対して即座にブザーが鳴る人も増えているというか。 以前ある作家さんが「不倫をする登場人物を描きづらい」と話していたのが印象に残っています。不倫をする人が出てくるとみんなそこに集中して、「この男はクズだ」と言うことで満足してしまう……というようなことをおっしゃっていました。 「犯罪者の一生」みたいなかたちで書いているぶんには納得して読めても、「普通の人」の顔で登場人物がそういう行為をするととたんに拒絶反応が出てしまう人が多いと。 山崎:それを聞くと、文学の分野でもっと頑張らなきゃと思います。ジャッジではないことを、文学の仕事としてちゃんとやれていないのかもしれない。
ジャッジの線引きは必ず起こる。それを認めて、線を引かない作品をつくる
小林:ジャッジの目線をどうやったら取り除けるんだろう、とはすごく考えます。政治的な思想がまったく違う人や罪を犯す人をつい「別の世界の人」と線引きしてしまう自分がいる。本当は自分にもそうなる可能性があるはずなのに。 でも小説だったら、「この人は自分みたいだな」と思っていた人物が予想もつかない行動を起こすこともあるわけで。『あきらめる』を読んでいたときも、はじめは雄大という人物の恋心や弱さに感情移入しながら読んでいたのだけれど、その同じ雄大が、別の関係性のなかでは、急に傲慢で尊大な態度をとっていて「えっ!」と驚いてしまって。そうやって揺さぶられることがすごく大事なんだなって実感しました。 山崎:意地悪をしてしまうこととか、差別をする側に立ったときの気持ちとか、そういうのを、むしろ「自分にもあるよね」って認めてしまうほうが一歩前に進めるんじゃないかという気はします。 線を引いてすっきりした気持ちになることも私にはたぶんある。だから「線を引かないほうがいいよね」と言うだけでは違うと思うんです。ほかの作品を読んで「線」を感じたとき、ここに私のやるべき仕事があるなと感じます。 たとえばその試みのひとつとして、『あきらめる』は性別や年齢を表す言葉を使わないで書いているんです。 小林:確かに。みんな名前で呼んでいるね。 山崎:性別の言葉を壁と感じて読みにくさを覚える読者もいますから。私の場合は、線引きではない、違う表現をしようかな、と。 とはいえ、性別を表す言葉を世の中からなくしたいわけじゃありません。私の書くものではほかの言葉を使おう、いまの社会のなかで私の場合はこうしよう、という程度のことで、ほかの人が性別を表す言葉を書くのはかまわないんです。 とにかく、「いまの社会でどう折り合いをつけて生きていくか」に自分らしさがあると思っていて、「こういうふうに折り合いをつけています」を書けたとき、いい仕事ができたと思えるんです。