「文学」をあきらめたから『あきらめる』が書けた。山崎ナオコーラ×小林エリカ×花田菜々子の鼎談レポ
自分の加害性を認めることが、差別や暴力について考える一歩になる
花田:まずは『あきらめる』、本当におもしろかったです。「SF」と聞いて最初は身構えたんですけど、宇宙とかタイムトラベルの話ではなく、本当に起こりそうな近未来の話。子育ての話や親子の確執、人間のいろんな矛盾や不思議さが複雑に描かれていて、特に小さい子どもの加害性やままならなさみたいなものっていままであまり文学で読んだことがなかったな……と。心に「ドンっ」と来ましたね。 山崎:いま「加害性」という言葉が出ましたけど、私は自分のなかにある加害性をどう取り扱ったらいいんだろう、とずっと考えていて。差別に反対したいと考えているけれど、一方で私自身も自然と誰かを差別してしまっているときがあって、自分のなかの暴力性を取り去ることができないんですよね。そんな自分の加害性に対峙しないといけない瞬間がある。 「あきらめる」は、古語では「明らかにする」という前向きな意味らしくて。差別や暴力といった加害性が自分にあると「明らかにする」ことで、もしかしたら何か答えに近づけるのではないかという気持ちがあり、小説にしたいと思ったんです。 花田:でも『あきらめる』で書かれていることって「私は差別する人間だけどそのままでいいや」とは違いますよね。「私は差別なんかしない人間です」でシャットダウンするのでもなく、「自分も差別している」ことと向き合い続けることが書かれているというか。 花田:「自分も加害者だと自覚しよう」という言葉自体はすでに広がっているし、言われたら「そうだよな」と思うんですけど、それをもっと深く思考している感じがして、私はそこが好きでした。
一人の人間が抱える、マイノリティ性とマジョリティ性
小林:私が秀逸だと思ったのは、マイノリティとマジョリティの揺らぎが描かれているところ。同性愛者でマイノリティとして描かれている人物が、親子という関係性のなかでは家父長的になったり、子どもという社会的に弱いとされている人物が、暴力や強権を持ちえる存在にもなったり。力が強い弱い、マジョリティとマイノリティが、一人の人間のなかで固定せず入れ替わりながら展開していくのが素晴らしいと思いました。 山崎:一人の人物がすべてにおいてマイノリティになるわけではないんですよね。マジョリティの側面ももっているし、弱い立場のときもあれば権力をもつときもある。 小林:私も『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋)を書くなかで、強者と弱者の揺らぎをすごく意識することがありました。 戦時中、高等女学校に進学できる恵まれた家庭の女の子たちが風船爆弾をつくり、一生懸命戦争に協力している。なぜなのかを調べていくと、彼女たちがキリスト教系の学校にいたため、敵として認定されないように率先して協力しなければいけなかった現実が見えてきて。弱い立場だからこそ、戦争に加勢しないと生き残れないんだということに行き着きました。 小林:これまで権力に一度も認めてもらったことがない存在として生きるなかで、自分たちのつくった爆弾で国に貢献できる、褒めてもらえると思ったらすごく頑張ってしまう……。そんな状況も私は、わかるなと思ったんです。 結果的に彼女たちがつくった風船爆弾で、アメリカ側に死者が出てしまった。そういうふうに、自分の弱さと強さが状況によって逆になってしまうことがあるんだなと考えるようになりました。