佐藤愛子100歳が語る「兄・サトウハチローは、奇抜で繊細な詩人だった」生誕120年、没後50年
◆美術学校でニセ学生、暗躍 八郎はやることが奇抜でしたから、八郎に会った人、話を聞いた人はそのことを鮮烈に覚えていたものです。家族は慣れっこでしたけど。(笑) 私が物心ついた初めから、何かと世間じゃ有名な人でしたよ。作家であり、不良であり、ニセ学生であり。 ニセ学生というのはね、上野の美術学校(今の東京藝術大学)に友だちが多くて、仲間と一緒に何年も美校に通っていたんです。あまりに堂々としているから、守衛も教授も本モノの学生だと思い込んでいた。 漫画家の小野佐世男が、ニセ学生の八郎がいかに困った上級生だったかを書いていましたよ。先輩ヅラして新入生を校庭に並ばせて、50銭ずつ集めては卑猥な唄を準校歌だといって教え込んだ、と。 上野動物園が美術学校と崖を隔てた隣にあったもので、ちょうど崖の下が七面鳥とホロホロ鳥の囲いだったのね。八郎が釣り竿で七面鳥を釣り上げて、仲間と焼いて食べちゃった。 徐々に鳥が減っていくので動物園長が校長に手紙を出したの。「貴校の猿どもがわが園の鳥を獲って困っている。取り締まってくれ」と。そうしたら校長は「わが校の猿は野放しだから、取り締まるわけにはいきません」って。(笑)
◆センチメンタルですぐに泣く 八郎さんは中学生の頃から詩人の福士幸次郎に詩を学び、西条八十に師事。23歳で第一詩集『爪色の雨』を上梓しました。お父様の反応は? ――「何が爪色の雨だ。爪なんてちっぽけなものを材料にするなんて。天下国家とか壮大なものに目を向けろ」と怒ってました。でもそれも八郎に聞いた話でね、ホントかどうかわからないですよ。ほらふきですから。 私は八郎の詩のなかでひとつ挙げるとしたら「象のシワ」というのが好きでしたね。 八郎が晩年、入院していた時に私、見舞いに行ってね。「兄さんの作った詩のなかじゃ私、ゾウの詩が、最高に好きなんだわ」って言ったんです。そしたらなんにも返事しないで、大きなほっぺたに涙が伝って流れました。亡くなる少し前の話です。 八郎はすぐに泣くの。センチメンタルなんですね。 涙し、感傷的な詩を書く八郎さんと、10代後半にはケンカでたびたび警察の世話になるなど破天荒なことで有名だった八郎さん。その間に落差を感じますが……。 ――八郎にはある種の鋭敏な感受性があるんです。だからすぐに激怒してケンカしたり、感極まって泣いたり、女に惚れたり、わがまま勝手に振る舞ったりする。それぞれの感情が八郎のなかにはあるわけです。 人間は、いろんな要素を併せ持っています。ひと色じゃないんです。矛盾だらけですよ。 世間の人は、あの作家はこんな人間だと決めてかかるのが好きですね。それがわかりやすいからなんでしょう。でも、わかる必要はなくて、そのまま受け取ればいい。八郎はそういう人だった。それしかないの。