荒川ナッシュ医インタビュー。ディアスポラ、クィア、美術館制度……国立新美術館での個展を語る(聞き手・文:蔵屋美香)
美術館制度と労働
荒ナ 国立美術館という場所は、蔵屋さんがキュレーターとして見たとき、興味深いな、みたいなことはないですか。 蔵屋 え、興味深い? 荒ナ はい。僕は、日本でこの規模の展覧会をしたのは初めてです。どの美術館も、日本に限らず規制はありますけど……。 蔵屋 ああ、お話できる範囲でぜひ。 荒ナ 走ってはいけないとか食べ物はダメとか、今回はいろいろな制約のなかで、美術館と駆け引きをしながら作品を作りました。それ自体がやりがいで、そこが作品になる部分もありました。でも、こうしたことは、日本の観客にはあまり見えないものなんでしょうか。 蔵屋 クータの《ラックス・インテリア》のように、絵画がその身に引き受けている様々な文脈のうち、医さんが苦心して向き合った美術館という制度の規制が、観客には感じ取れていないのではないか、ということですか。 荒ナ そうですね。たとえば施工や輸送の業者さんの入札、あとほかの美術館からの作品借用などです。何か月も前に内容を決めて、事務的なことを進めてもらわなければいけない。そこがパフォーマンスの即興性と相反するので、それを調整して、パフォーマンス・アーティストに必要な鮮度を保つのが大変でした。 蔵屋 なるほど。入札も作品借用も、美術館としてはわりと普通の手順ですが、今回は医さんが経験したことのないややこしさでしたか? 荒ナ ヨーロッパで若いキュレーターと組むときは、自由にやらせてもらえることが多いです。海外では、美術館でパフォーマンス・アートの個展が結構行われるようになってきている。美術館も、パフォーマンスをどう個展として扱えばいいか、20年ぐらいかけてようやくシステムを整えつつあるんです。 しかし、それが逆に、パフォーマンス・アートの展覧会にうまく規制をかけることにもなっていますね。僕が活動を始めた2004年頃は、システムがないだけに、美術館もよくわからないうちにとんでもないことを受け入れちゃってたのかな、と思ったりはします。 蔵屋 日本では、まだ美術館がパフォーマンスのスピードの速さにいかに対応するか、というところまで議論が行っていないと思います。その先には、じゃあパフォーマンスをコレクションに加えるとしたらどうすればいいか、という問題もありますし。だから医さんのこの展覧会がよい突破口になればいいなと思います。 荒ナ それに、新美の館長の逢坂恵理子さんとも話したんですが、この個展に関わる学芸員は全部で4人です。国立だけど、MoMAやテートに比べるととても少ないし、多くのお仕事を同時にジャグリングされている。だからみなさんほぼ休みなしになりますよね。 蔵屋 日本の美術館は人的な制度設計に無理がある。だからとくに今回のような、ツアーやイベントが頻発する、日々変化する、みたいな企画をやると、まあすぐにそうなりますよね。 荒ナ この展覧会では、9つの部屋に20人くらいのアーティストを招いている。それぞれがいろんなリクエストをしてきてすごく大変だったんです。美術館の制度批判ではないんですが、こうしたパフォーマンス・アーティストの労働という問題が見えるようなコンテンツを、少しでも来年春の展覧会カタログに組み込みたいと思っています。 蔵屋 アーティストにとっても、そして美術館の職員にとっても、労働の問題はとても重要です。とりわけアーティストが美術館の制度批判をするとき、しばしば、美術館で働いているのも普通の人間で、その人にはその人の生活があるという点が抜けてしまいます。アーティストがやりたいことをかなえるために他人を24時間働かせるのは、決して正しいことではない。美術館とアーティスト、双方の労働環境を整えないと、結局どちらかにしわ寄せが行くだけになります。 荒ナ 新美のいろんな方面に感謝してもしきれません。あと、今回僕はいろんな部署に根回ししたんですが、そのなかで、学芸員と教育普及にはあまり交流がないことに気づきました。第一室にある《メガご自由にお描きください》は、もとはテートで実施した作品で、テートで初めて学芸員とエデュケーターが一緒にやったプロジェクトでした。だから今回も、学芸員の人手や予算がないなら教育普及を巻き込んで、彼らが持っているリソースで補う、ということをやらせてもらいました。 蔵屋 学芸員の常識からすると、「床に絵を描かせてください」って言われたら「いや、とんでもない」になる。でも、教育普及の人だと、わりとすんなり受け入れられそうですね。たくさん巻き込むことで、別のロジックが通る可能性が生まれます。 荒ナ 逆に学芸員を説得するときは、吉原治良なんかを引き合いに出して、たとえば美術史的な意義を共有できるように持っていきます。 蔵屋 わたしも横浜美術館で、うまくつながっていない部署同士を結びつけることで、眠っている可能性を引き出せないか、とよく考えます。だから、医さんはまるで館長みたいなことを言っているなと思って聞いていました(笑)。20人の作品を集めてある枠組みの中に入れ、これまで見えなかった意味に光を当てるという行為だって、ほとんどキュレーターの仕事ですしね。 あと、新美術館では、美術館の企画展と団体展の貸会場のあいだもあまりつながっていません。窓口も別だし、お客さんも異なる。医さんは今回、65歳以上の人たちと団体展の会場に入り込むことで、そこにも手を伸ばしました。 荒ナ 貸会場は美術館の総務課というところが仕切っています。ひとつの団体だけを特別扱いするようなことはできないとか、いろいろ難しい理由があるみたいで。でも今回は毎日書道展に直接あたって会場をお借りすることができました。今回、教育普及、情報企画、広報など、国立新美術館の仕事をよく知る機会をいただけましたが、本当はこの総務課とももっとお知り合いになりたかったです。オフィスに出没しすぎてやりづらかったでしょうけど(笑)。 ニューヨークの2000年代初頭には、ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」の影響がありました。その前だと、アンドレア・フレイザーの制度批判とかですね。こういう流れが画家にも大きな影響を与えている。アーティストが主体性(sense of agency)について再考していた。僕が当時知っていたニューヨークの画家たちは、だからこそ絵画を壁に掛けるだけに止まらないことをしていたと思います。 蔵屋 制度批判はとても重要です。でも、アーティストが美術館を批判するというだけだと、アート界の内輪もめみたいになり、観客がそこでどんな経験を得るか、というゴールが置き去りになります。 荒ナ 内輪的な輪を抜け出すというのは、確かに重要なテーマですね。しかし、美術館の制度批判と、多様性の追求は、テーマとしてどちらかしか選べないということではないですよね。 蔵屋 本当にそうですね。だから荒川ナッシュさんのように、パーソナルなことや社会的なことの絡まり合いの中に、プレイヤーのひとつとして、制度が生み出す限界の可視化というテーマが組み込まれている、このやり方には、新しい可能性を感じます。
蔵屋美香