荒川ナッシュ医インタビュー。ディアスポラ、クィア、美術館制度……国立新美術館での個展を語る(聞き手・文:蔵屋美香)
アートの道に進むまで
蔵屋 このまま行くとずっと国吉の話で終わりますね(笑)。立て直しましょう。 まずは医さんがどうやってアートの方向に進んだのか、少し聞かせていただけませんか。いま日本のアート界では、盛んに多様性ということが言われています。性別とか出身地とか障がいの有無とか、これまで見えなかった問題に光を当てる取り組み自体はすばらしいと思っています。でも意外な抜けがあって、多様性を扱うアーティストたちが、ひとつの点で意外に均質なんですよね。 荒ナ 均質というと? 蔵屋 一定以上の知的、経済的レベルを持つ親がいて、学費の高い美術大学に進学させてくれる。いわゆる文化資本を多く持つ家庭の子ばかりが、似たような大学教育を受けてアーティストになるきらいがあります。 荒ナ なるほど。僕の場合は、12歳のときに父親が亡くなって、保険金が出たんです。そのお金でアメリカの大学に4年行きました。学費は年間180万円ぐらいだったと思います。その後、夏だけの大学院に3年がかりで行きましたが、これはひと夏6000ドルぐらいでした。 でも、もともとニューヨークに行ったのは、(ファンである)ユーミンのコンサートの影響もあって、ステージのライティングを勉強したいと考えたからでした。しかし、そういうプログラムは当時なかった。じゃあデザインをやろうと、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツという学校に入ったら、ブラック・マウンテン・カレッジ出身のピーター・ハイネマンという先生に出会って、その人の勧めでファイン・アーツに関心を持ちました。 今回展示しているユタ・クータは、私の先生だった人です。新表現主義とコンセプチュアル・アートのはざまにいるみたいな作家です。絵画もやるし、パフォーマンスもやる。フェミニストの第2世代にあたります。2003年ごろから彼女に機会をもらってギャラリーなどでパフォーマンスを始めて、じゃあアートをやってみよう、というふうになりました。 蔵屋 クータは、《ラックス・インテリア》(2009)などの作品で知られる作家さんですね。プッサンに基づいた絵画作品が空間に自立している。これがひとつの物体として周囲のもの、たとえばエイズ危機のあおりで閉店したゲイ・クラブから拾ってきた照明器具などと関係を結ぶ。またクータのパフォーマンスのなかで、登場人物のようにふるまいもする。絵画は、物理的な空間、美術の歴史、社会的な出来事など、複数の文脈が交差する場所に現在進行形で存在しているのです。 医さんにも、クータから受け継いだ、絵画をいろいろな関係性のなかに開くという精神を感じます。それも、相当徹底した開きっぷりです。これは、先ほどいった日本の教育システムが生む均一性のなかからは生まれにくいものに思えます。 荒ナ やっぱり父親が12歳からいないという家庭のモデルが、まずマジョリティとは違うかもしれないですね。 あと、じつはアメリカに行く前に、現代美術なんて何も知らないまま東京藝術大学を受験して落ちました。どうせ浪人するならと、19歳でピースボートのボランティアに2年ちかく参加しました。そこで、在日韓国人の中田統一さんというクィアの映画監督を呼んで、一緒に企画をやったりしました。LGBT、クィア・アイデンティティについては、その頃からかなり意識していましたね。 蔵屋 とはいえ、お話を聞く限り、医さんがいまこの状態にあることについては、偶然の力も相当大きいですね。 荒ナ そうですね。2004年頃のニューヨークには、加速化、グローバル化するアートビジネスに対してアーティストが抵抗する、という雰囲気がありました。ドイツのマルティン・キッペンベルガーと世界初のアートフェア、アート・ケルンの文脈なんかとつながっていましたね。そこにニューヨークの土壌が混じりあって。今回の展示にも、いまから15年から20年くらい前のニューヨークの画家たちが共有したそんな精神が盛り込まれています。 あと、2002年に、大学でドクメンタ11の脱植民地主義を題材にしたセミナーを受講したんです。そのとき、ドイツやニューヨークの流れにコミットするのはいいけれど、じゃあ私は何をコントリビューションすればいいんだろうと考えました。 その頃、白川昌生さんの『日本のダダ』(1988年)や、ニューヨーク在住の研究者、富井玲子さんに教えてもらったのが、日本のコレクティヴの存在です。たとえば具体美術協会などです。じゃあ、この個性の外側にある集団性を、逆説的に個性にしてみようと考えました。これはアメリカやドイツにはあまりない文脈ですし、僕のなかにある日本の前衛の歴史への憧れがそうさせる部分もあります。 利点は、個人のプレッシャーが分散されることです。だから今回のようにいきなり2000㎡の展示空間でも、そんなにプレッシャーを感じない。 蔵屋 確かに! 荒ナ だから、僕個人の問題は、LGBTでも移民でももちろん出てくるんだけど、それは相対的なものなんです。僕は当事者だけれど、自分の内面をさらけ出すわけではない。たとえば、コミュニティのためにLGBTの表象を国立美術館のステージに上げちゃう、みたいな感じですね。 社会資本、ソーシャル・キャピタルということを考えます。パーソナルなことで言うと、もうすぐ卵子提供と代理出産で新しい家族ができます。だけど、この情報を日本の文脈で活かすという視点を持つとき、それはパーソナルなことというより、もっとプロデューサー的な視点になります。日本は台湾やタイに比べてまだ同性婚もない。(メディアで表象される)男性同士のキスも、最近は増えてきたようだけど、もうちょっとあってもいいんじゃない、というような。 あとは、たとえば、僕はユーミンのファンですが、ユーミンが表象するメジャーなものと、移民やマイノリティのことを組み合わせたら、ちょっと違ったオーディエンスも受け止めてくれるんじゃないか、ならばそんなアクシデントを起こしてみよう、と考えたりとか。 蔵屋 個人としてユーミン好きということと、ユーミンを媒体にして伝わる層を作るという社会的な行為と、ユーミンを扱うことにもやはり複数の面があるということですね。 荒ナ ガチファンなだけ、ではないのです(笑)。