現代演劇の女方・篠井英介「5歳で観た美空ひばりさんの時代劇映画をきっかけに踊りを習い始めて。その頃から、男より女の踊りのほうが好きだった」
篠井さんは大学に入るために上京し、すぐに藤間宗家に入門する。六世藤間勘十郎(当代の祖父)は、大方の歌舞伎役者の子弟の師匠だった人。 ――ええ、歌舞伎の子供たちもいらしてましたね。それが逆に僕にはいい刺激になりました。 それこそ今の(市川)團十郎さんとか、今度菊五郎を襲名する(尾上)菊之助さんとかが、ばあやさんと来てたり、(中村)勘九郎くんや(中村)七之助くんもまだ小さくて走り回って大変だったけど、あの子たちの面倒を見て、近くのマクドナルドに連れてったりしましたよ。覚えてないと思うけど。(笑) その後、東京の日藝(日本大学藝術学部)に進学し、卒業と同時くらいに「花組芝居」の前身、加納幸和事務所という集団に入って。加納くんと僕は女方志向なので……やっぱり東京は広いな、僕みたいに女方をやりたい人間が他にもいるんだ、って喜びました。 そこで3、4年やって、それから花組芝居になって3年ほどですから、劇団にいたのは前身と合わせて6、7年でしたかね。
◆劇団を辞め、大海原に飛び出して 「花組芝居」の団員は男性のみで構成され、男性が女方も演じるが、時には髭を生やしたまま出てきたりするサイケデリックな劇団。 その評判を聞いて私が観に行ったのは、『かぶき座の怪人』(1989年)。加納幸和扮する女方の大立者が、クマのぬいぐるみに「あ、おはよう、あ、おはよう」とお辞儀をさせながら楽屋入り。 部屋では『一條大蔵譚』の常盤御前よろしく楊弓(ようきゅう)に興じて、パッと簾(すだれ)が落ちるとそこにはスーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』のポスターが、という、皮肉な笑いに満ちていた。 ――そうそう(笑)。歌舞伎界の縮図をこう、ギューッとパロディ化したみたいな感じでしたね。僕は売り出し中の若手女方という役どころで、その大立者に嫉妬されるという。 でも、今ならあんなこととてもできませんよ。名誉毀損ですもの。昔だからああやってできたけどね。(笑) で、第2の転機は、その花組を辞めたことかな。とっても楽しかったんですよ。でも、劇団で芝居、アルバイト、劇団で芝居、アルバイト……の繰り返しで1年経っちゃうわけ。そろそろ30歳になる頃だったので、これはまずいな、楽しすぎるぞ、と。やはり職業としての役者で一本立ちしたいな、と思って一回辞めてみることに。 当時アトリエ・ダンカンという事務所が呼んでくださったので、そこに所属してアルバイトをしながら2年ほどしたら映像の仕事もコンスタントに来始めて、生活できるようになりました。 ですから花組を辞めて世の中に、大海原に飛び出したのが、第2の転機でしょうね。
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