ひっそりと歴史ロマンが眠る城 「柏原城」(後編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ
「城山砦」ともよばれる柏原城(埼玉県狭山市)には、鎌倉時代の武将柏原太郎の館跡との伝承や、14世紀中頃に鎌倉公方足利基氏が在陣した入間川御所を守るための城との伝承もありますが、現地に残る遺構は戦国時代のものです。 ■江戸時代には「上杉砦」とよばれていた 天文14(1545)年、扇谷上杉朝定は北条氏に奪われた川越城を取り戻すため、関東管領山内上杉憲政、古河公方足利晴氏とともに8万の軍勢で川越城を包囲。このとき、山内上杉憲政が陣城として築いたのが当城だと伝わることから、江戸時代には「上杉砦」とよばれていたようです。 柏原城はJR川越線笠幡駅の南方約4キロに位置し、入間川に張り出した比高約10メートルの河岸段丘上に築かれました。東側に本郭、西側に二ノ郭が配置されています。本郭は崖側以外の三方に土塁が巡らされていて、その外側には空堀が施されています。本郭南側には出入り口である虎口があり、そのアプローチは、空堀の掘り残しを利用したスロープ状の土橋になっています。さらに、この虎口に対して、横から矢が掛かる構造になっていて、現地に立つと身をもって防御性の高さを感じることができます。 現在、城山稲荷大明神が祭られている二ノ郭には、わずかながらも土塁が残っていて、また、西側にはうっすらと空堀も確認できます。二ノ郭は狭いながらも、本郭の前面に配置された重要な郭だったと推察でき、戦いの際には出撃する味方を隠し、守るための馬出だと考えられています。 ■川越合戦で陣城とした山内上杉憲政 川越合戦では、ここ柏原城を陣城とした山内上杉憲政でしたが、両上杉氏と古河公方の連合軍は北条氏康に敗北。憲政と古河公方足利晴氏は敗走、扇谷上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉氏は滅亡しました。これによって、北条氏は武蔵国支配を堅固なものにしました。 この後、天正18(1590)年に豊臣秀吉に攻め滅ぼされるまで、関東の覇者となる小田原北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とします。そもそも、北条氏は室町幕府の奉公衆である伊勢氏を出自とし、宗瑞は備中荏原荘(岡山県井原市)を本領として備中伊勢氏と称された伊勢氏の分家の生まれです。本家は政所の長官である政所執事を務め、宗瑞も室町将軍の近くに仕え、頭角を現しました。そして、幕府の意向のもと、宗瑞の姉の嫁ぎ先である駿河今川氏のお家騒動に介入し、関東の戦国史に登場します。 2代氏綱のときに小田原城を本城とし、大永3(1523)年に「伊勢」から「北条」に改称しました。これは、関東の政治勢力から「他国の逆徒」と称されたような、よそ者の侵略者というイメージの払拭を狙ったものと考えられています。そして、3代氏康のとき、関東における天下分け目の戦いともいえる川越合戦に勝利します。この戦いの結果は、関東の政治的状況を一変させました。氏康の歴史的勝利によって、まさに新しい時代の幕が上がったのです。