韓国「戒厳令」日本の報道・論評に欠けている“法的視点” わずか3時間の“無血収束”に見えた「日本の民主主義の危機」とは
韓国の市民が示した「命がけで民主主義を守る覚悟」
私たちは日本国民であり、韓国の国内政治から受ける影響は「外交」や「貿易」における間接的な形にとどまる。「韓国のニュース」としてだけでは、それは単なる「外国の出来事」として終わってしまう。 ここまで述べてきたことを、日本の政治意識や制度と関連づけて考えると、今回のニュースが持つ意味が見えてくる。 たとえば、事変の収束に向けての、韓国の国会議員や、私たちと同じ一主権者たちの行動。私たちは果たして、午後23時に戒厳令がアナウンスされて、その1時間後に国会で軍隊と対峙する覚悟を決めて銃の前に立つことができるのか。 これは、私も正直に言って、容易なことではないと思う。人間、当り前だが、命が惜しい。 しかし、隣国の市民から「民主主義を守るには、このような覚悟と行動が必要だ」と示されてどう思うか、日本の国会議員も有権者の一人ひとりも考えるべきではないか。少なくとも、そのような問題提起のされ方があって良いニュースだと思う。
戒厳令の危険性…「恣意性」「歯止めの利かなさ」「一部政治家の“危機感のなさ”」が露呈
戒厳令のような制度に対する問題提起も必要だ。韓国の戒厳令は、れっきとした憲法上の制度である。韓国憲法77条は「大統領は戦時・事変又はこれに準ずる国家非常事態において兵力をもって軍事上の必要に応じ、又は公共の安寧秩序を維持する必要がある時には法律が定めるところにより、戒厳を宣布することができる」と定めている。 この憲法所定の要件にてらせば、今回の大統領による戒厳令の発令はおそらく、かなり控え目に言っても許容されないだろう。法律が定める手続きも踏んでいなかったと報道されている。 ところが、大統領が一度戒厳令を行使してしまえば、実際に軍隊が動き、制度が動きかけてしまった。 今回は、国会が抑止する力を持っていたので、阻止できた。しかし、抑止する力がはたらかないとき、文言や法律の作りでは、権力の暴走を抑止できない。 今回の韓国の事変を受けて、少なくとも日本では現役の国会議員1名と、元国会議員1名が、緊急事態条項の憲法による創設を求めたのを確認している。私には全く理解ができない。 そもそも、このような政変が起きた理由は、「緊急事態」を理由・口実として通常の法秩序・手続を逸脱する「戒厳令」が制度として認められているからである。にもかかわらず、この事象を見て、そのような権力の集中を肯定的にとらえる意識が生まれることは、論理的にはあり得ない。 戒厳令のような制度を創設すると、どのような事態を招く危険性があるのか。それをどう抑止し問題を防ぐのか。議会がしばしば行政と権力を一致させてしまう日本の統治制度において、どうパワーバランスをとるのか。…少なくともそういう問題提起があってしかるべきだ。 このように、日本社会に生きる私たちにとって「他山の石」とするためにも、今回の事変を単なる「外国の出来事」として終わらせず、事件の詳細な背景・文脈が共有されるべきと考え、私もこの文を書いている。