熱き「伏見工DNA」継承し9年ぶりの花園 大島淳史・京都工学院ラグビー部監督
伝統の赤黒ジャージーが9年ぶりに、聖地・花園に帰還した。昭和の高校ラグビー界に旋風を巻き起こしたあの時代から半世紀近く。伏見工の校名も変わったが、そのDNAを受け継いだ令和のフィフティーンが1、2回戦と、あこがれの舞台で躍動した。 「久しぶりの花園。本当に多くの人に応援されているんだな、ということの再確認になりましたね」 昨年11月、全国高校ラグビー大会京都府予選決勝で、京都工学院は8年連続ではね返されてきたライバル、京都成章に勝利し花園行きを決めた。歓喜の輪の中で、監督の大島淳史(あつし)さん(42)は声を上げて泣いた。 平成12年度、3回目の花園優勝時の主将。日本体育大を卒業後、中学校での教員生活を経て、母校にコーチとして戻ったのが31歳のときだった。 「泣き虫先生」こと山口良治さん(81)がすさんだ生徒たちにラグビーへの情熱を吹き込み、全国高校ラグビー大会に初出場したのが昭和54年度。翌年度には初優勝を成し遂げた。熱血漢の教師が「信は力なり」の精神で不良少年たちを率い、高校ラグビーの頂点に立つ奇跡の物語は、テレビドラマ「スクール・ウォーズ」で描かれ、大ヒット。花園制覇は計4度を誇る。 そんな輝かしい伝統を持つ母校も、生徒数の減少などを受けて平成28年に他校と統合され、現在の校名に。これと前後してラグビーでは京都成章が台頭、花園はいつしか遠い存在になっていた。 約6年前に監督に就任。「人生をかける」と意気込んだが、うまくいかないことが多かった。当時はゼネラルマネジャー(GM)とのツートップ体制。組織のトップであるGMと、現場トップの大島さんとの間で意見の相違も少なくなかったという。 転機は監督就任3年目。GMの退任に伴い、すべてを一人で背負うことになった。 そこで自問自答を繰り返した。本当に生徒のために、人生をかけて指導できていたのか。生徒はどんな思いで卒業していったのか。こんなことで赤黒の復活はなるのか。 折からの新型コロナウイルス禍。人流が制限され、スポーツ大会の中止が相次ぎ、部活動も制限された。制約は「もっと練習がしたい」という生徒の渇望を生む。「本気で勝ちたいという彼らの目線がまぶしかった」と振り返る。