分厚い電話帳をビリッ!ディック・ザ・ブルーザーの素顔 門馬忠雄さんニヤリ「色気話もあるよ」
【プロレス蔵出し写真館】ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王座を奪取し、海外で防衛戦を行った1984年(昭和59年)3月4日のイリノイ州シカゴ・ローズモントホライズン。前座で往年の名レスラーがタッグを組み、スタン・ハンセン&ニック・ボックウィンクル組と対戦していた。 【写真】上野から新前橋へ お茶目なレイスと動じぬブルーザー 〝生傷男〟ディック・ザ・ブルーザーと〝ぶっ壊し屋〟クラッシャー・リソワスキーだ。 2人を生で見たのはこのときが初めて。2人はハンセンのパワーの前にいいところなく、ニックの急所攻撃でブルーザーがフォールを奪われて敗戦した。それでも幼少のころテレビで、2人の暴れっぷりを見ていただけに感慨深かった。 11月10日はブルーザーの命日。ブルーザーは91年(平成3年)に食道破裂により62歳で死去した。 さて、ブルーザーといえばオールドファンには電話帳破りが知られる。 今から55年前の1969年(昭和44年)8月7日、クラッシャーを伴って4度目の来日を果たしたブルーザーは、桜井康雄記者に「どれぐらい力があるのか? 具体的に知りたい」と質問され「2人とも缶詰は片手で握りつぶす。これを見ろ」。 そう言うと宿舎のホテル・ニュージャパンの部屋に備えつけの分厚い東京都の電話帳を手に取り、横にするとベリベリッと二つに裂き始めた。ブルーザーが「50音別電話帳」、クラッシャーは「職業別電話帳」だった(写真)。 ところで、ブルーザーが初来日したのは65年(昭和40年)11月23日。羽田空港に到着し、タラップを下りてきたブルーザーを約2、30人のファンが出迎えた。少年ファンからの「ブルーザー! ブルーザー!」という叫び声に「NOISY(騒がしいな)」と笑顔で来日第一声。 入国審査を終えて到着口に出てくると、さらに約100人のファンが待ち構えサインを求めた。ブルーザーは「オレはにぎやかなことが大好き。ファンの歓迎はうれしかった。今までメキシコ、オーストラリア、ドイツなどへ行ったが、空港でサインを求められたり、名前を呼ばれたのは初めて。気分がよかった」と見かけと違う意外な反応。サインの求めにも応じていた。 半世紀以上も前、この到着取材をした〝生き証人〟門馬忠雄さんが記憶をたぐってくれた。 「東スポが浜松町1丁目にあった時代で、裏に町工場があった。そこでカメラマンの鈴木(晧三)君が鉄パイプを逆Uの字に曲げてもらった。それを持参して空港へ行った。ブルーザーはそれを手にすると逆にUの字に曲げちゃった。それでみんなビックリした。それが最初の出会い」と明かす。 そして「(オレの)60何年のキャリアで一番ほれたレスラー。パッと一目見て〝オレはレスラーだ〟っていう顔。そして筋肉美。西部アメリカを象徴しているような感じ。肉体の知性派と感じてます。(ハーリー)レイスがまだ下っ端だったころ(68年2月の来日時)、ブルーザーに恐る恐る腕回りを測らせてもらったんだよ。48センチあった。(ジャイアント)馬場がニタニタして『オレに嫌みか』って言ってたよ」と門馬さんは笑う。 「色気話もあるよ。国際プロレスのとき北海道巡業で、釧路だったかな。ブルーザーが女連れで部屋に入るとこ見ちゃった。そしたら翌々日かな、列車の食堂車でオレの伝票を持って行った。口に指を当てて『シー』って。しゃべるなっていう合図だろうな。あいつにメシおごってもらったのオレぐらいだろ」(門馬さん) 「思い出深いのはバーバリーのコート。ブルーザーだけじゃなくクラッシャーも着てたな。バーバリーが流行ってた(※バーバリーのトレンチコートには希少モデルやヴィンテージ品が存在しており、現在ではリユース市場で高額取引されているという)。2人は体大きいから格好よかったよ。そんなわけで私もバーバリー買いました(笑い)。馬場が『門ちゃんもバーバリー着るようになったか』って言ってたな。アンドレ(ザ・ジャイアント)と並んで、一番思い出深いレスラーだね」と、門馬さんはブルーザーを懐かしんだ(敬称略)。
木明勝義