「ラジオを半値にせい」 松下幸之助が、工場長に無理な要求を通した真意
高度経済成長時代が終わる頃、松下電器産業(現パナソニック)はすでに世界的な一流企業としての地位を確立していた。しかし、創業者の松下幸之助は革新の気風が薄れてきたことを危惧し、技術者の幹部社員に向けて使命感にもとづいた"意識革命"の必要性を説いたのだった。 【写真】1970年、ラジオ事業部にて撮影された松下幸之助(当時76歳) ※本稿は『[実践]理念経営Labo 2023 SUMMER 7-9』より、内容を抜粋・編集したものです。
技術者の姿勢を問う
1973年1月、松下電器産業のラジオ事業部で「在阪技術担当責任者対象講話会」が開かれた。京阪神地域の課長職以上の技術者ばかりを集めて実施された、松下幸之助の講話会である。 当時78歳の幸之助は、出席した1200人の技術者に向かって、技術の専門的なことについては理解できなくなってきた面があると述べつつも、"意識革命"の必要性を訴えた。それは、従来の思考枠組みの延長線上で研究開発や製造の仕事に従事するのではなく、その枠組み自体を見直せということである。 幸之助は、松下電器の利益率が伸び悩んでいることに懸念を示していた。このままでは大企業病を患ってしまう――。講話では新年ということもあり、当初は上機嫌だった幸之助の口調も、次第に厳しくなる。 「私が技術者の方々にときどき何か言うと、『それは難しい』と、こう言う。『難しいからやりがいがあるのやないか』『それはそんなものではない』と、こう言う」 幸之助はみずから限界を設定する技術者の姿勢に苛立っていた。知識だけで技術的に可能か不可能かばかりを考え、世と人の繁栄や幸せのために何かを実現しようという使命感に欠けていたからだ。
「できる」という確信
講話会の会場となったラジオ事業部の原点は、1931年に自社で独自開発したラジオのヒットにある。 もともと松下電器には、ラジオの専門知識を有する技術者がいなかった。それにもかかわらず、短期間で東京中央放送局(NHKの前身)のコンクールで1等の栄誉に輝くほどのラジオを開発し、新型のキャビネットに組み込んで発売したところ、市場で高い評価を得たのである。 もっとも、松下電器はその前年の1930年にラジオ事業に進出していた。当時のラジオは日本国民にとってまさに"新時代"のオーディオ製品。ただ、新しいがゆえに製品としては発展途上の面もあって故障が多かった。 そこで幸之助は、故障なきラジオをつくれば国民に喜ばれると考え、ラジオの製造販売に乗り出す。ただし製造については、自社に技術がなかったため、幸之助が信頼できると思ったラジオメーカーと提携することにした。 ところが、同メーカーに対する幸之助の期待は裏切られ、そのラジオにも故障が続出する。ならば独自に高品質のラジオを開発するしかないと判断した幸之助は、当時研究部主任の中尾哲二郎(のちの副社長)に開発の指示を出した。 中尾は以前にも、専門外ながら、大ヒット商品となるアイロンを生み出した優秀な技術者だ。中尾は、アイロンの開発を命じられたときと同様、ラジオの製造に関しても素人同然だった。 アイロンのときは幸之助から「きみならできる、必ずできるよ」と励まされておおいに発奮したが、ラジオについては「研究したことがないのですぐにはムリです。相当の時日をください」と答えて、消極的な姿勢を見せる。 それに対して幸之助は、「今日アマチュアでも立派にラジオを組み立てているではないか。できないことがあるものか。必ずつくれるという確信を持つかどうかが大切だ。私は確信している」と述べた。ここまで言われてしまっては、中尾も引き下がることはできない。研究部総動員で開発に取り組み、なんと3カ月で先述の1等のラジオを完成してしまったのである。