真珠湾に特殊潜航艇で出撃し「軍神」と称賛された叔父、墓参続ける男性「そんな時代に戻ってほしくない」
[戦後80年 昭和百年]
日本海軍がハワイに停泊中の米艦隊を奇襲した真珠湾攻撃から8日で83年。日本国民は米戦艦8隻を撃沈・撃破する大戦果に熱狂し、特殊潜航艇で出撃、戦死した9人は「軍神」とあがめられた。そのうちの一人、岩佐直治(なおじ)さん(享年26歳)のおいにあたる岩佐直正さん(88)は今も「軍神」という言葉に複雑な気持ちを抱く。(波多江一郎) 【写真】岩佐直治さん
1隻も帰らず
1941年12月7日夜(現地時間7日未明)、真珠湾まで約20キロの洋上に潜水艦が浮上した。甲板には特殊潜航艇が取り付けられている。はるか遠くに島の灯火(ともしび)が見えた。
「本日栄誉を担って壮途に就く。誓って皇国のため攻撃を決行する」。直治さんはそう言い残し、特殊潜航艇に乗り込んだ。防衛庁の公刊戦史「戦史叢書(そうしょ)」は、出撃の様子をこう記録している。
5隻で出撃し、米艦を襲撃する作戦だった。同書によると、日本側は「主力艦1隻撃沈確実」と判断したが、米側の資料を総合すると、大きな戦果は上げられなかったとされる。5隻は母艦に帰らず、直治さんら20歳代の9人が戦死した。
顔色変える大人
直治さんは15年、前橋市で農家の末っ子として生まれた。結婚して近所に住んでいた兄・五郎治さんを慕い、その2階8畳間で遅くまで机に向かった。34年、士官を養成する海軍兵学校(広島県)に入った。
五郎治さんの長男として岩佐さんが生まれたのは2年後。直治さんが帰省した41年夏、海軍帽をかぶせてくれ、縁側で写真を撮ってもらった。「優しい叔父」は、直後に帰らぬ人となった。
軍部は直治さんら9人を「九軍神」と神格化。東京・日比谷公園では海軍葬が営まれ、「軍神岩佐中佐」という軍歌も作られた。
42年3月、岩佐さんは黒塗りの車で直治さんの生家に乗り付ける嶋田繁太郎・海軍大臣を見た。大尉から中佐に2階級特進した直治さんの両親は、悲しむそぶりを見せず、気丈に振る舞ったという。
生家に大勢の人が弔問に訪れ、直治さんを題材にした映画の撮影クルーも来た。6歳だった岩佐さんは「岩佐中佐のおい」と呼ばれ、「海軍に入りたい」と思うようになった。