略奪と抑圧、終わらない絶望の日々…文化人類学が生まれた「知られざる背景」
「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。 【画像】なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
伝統が消えてしまう前に
19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカ人類学の勃興期には、国内に略奪と抑圧に苦しんでいるネイティブ・アメリカンがいました。その事実に向き合おうとした人類学者たちはネイティブ・アメリカンたちの古い暮らしや伝統が消えてしまう前に、それらを記録にとどめておくように努めたのです。 考古学や自然人類学、言語人類学、社会・文化人類学を学んだ上でネイティブ・アメリカンの「生のあり方」を知ろうとすることは、アメリカにおいては必然だったのです。アメリカの人類学のホリスティックな視点は、アメリカ国内の移民や黒人問題に向けられるだけでなく、地球上の様々な土地を調査する研究者たちに継承されていきました。 1870年代後半に人口が5000万人を超えたアメリカは、その後も移民が増え続けました。1892年には、ニューヨークに移民のための入国管理事務所が設けられています。それ以降も移民を受け入れ続けて、1960年代後半には人口2億人を突破しています(2020年現在では、3億3000万人)。 人口の急激な増加と大学の増加に伴って、全国に人類学科が創設され、人類学者の雇用機会が増えました。人類学者や人類学を専攻する学生たちはどんどん新しい問題に取り組むようになり、新しい手法を用いて、この学問を切り拓いていったのです。 こうした気風は、アメリカにおける人類学のバラエティーを生み出す機動力となりました。1940年代後半から1960年代前半にかけては、ボアズ派を継承したベネディクトやミードらによる「文化とパーソナリティー」論を経て、心理人類学が盛んとなります。 一方、文化相対主義になじめなかった「反ボアズ」の流れの中で、地域や集団を超えて、地球規模で人類学の研究を進めるべきだとする考え方が現れました。レスリー・ホワイトとその学生だったエルマン・サーヴィスやマーシャル・サーリンズらは、人口増加と技術発展と社会統合を合わせて、「新進化主義」を主導しました。彼らは、歴史の再構成ではなく、文化の多様性を理解するために進化論を用いたのです。ホワイトは文化進化の目安は、年間一人当たりのエネルギー使用量だと考えました。ジュリアン・スチュワードは、エネルギー量が同じでも、技術環境によって文化は多系的に進化すると論じました。サーヴィスは、バンド、部族、首長制社会、「未開」国家の社会文化の進化段階を設定しました(サーヴィス『民族の世界』増田義郎監修、講談社学術文庫、1991年)。