略奪と抑圧、終わらない絶望の日々…文化人類学が生まれた「知られざる背景」
「象徴人類学」とは
1960年代後半から1980年代前半にかけて、アメリカの人類学はさらに分岐しながら広がっていきます。マーヴィン・ハリスは、「反ボアズ」の流れに与しながら、人口増加と生産性が社会構造や文化とどのように関わるのかという観点から「文化唯物論」を唱えます。レヴィ=ストロースは、トーテムに選ばれた動物は「考えるのに適している」からだと主張しました。その言い回しを捩ってつくられた、ハリスの「食べるのに適している」という考え方は、人間の文化が唯物的な条件に規定されている立場を表しています(ハリス『食と文化の謎』板橋作美訳、岩波現代文庫、2001年)。 イギリスからアメリカに移り、儀礼と象徴をめぐる研究を発表したヴィクター・ターナーや、アメリカ人の親族組織をひとつの象徴体系と捉えたデヴィッド・シュナイダーらによって「象徴人類学」が発展しました。さらにクリフォード・ギアーツは、宗教を象徴の体系と捉えたことで象徴人類学者として知られていますが、彼によって唱えられたのが「解釈人類学」です(ギアーツ『文化の解釈学』[1][2]吉田禎吾・柳川啓一・中牧弘允・板橋作美訳、岩波現代選書、1987年)。 このように、アメリカの人類学は、多彩な人類学へと分岐していきました。しかしいくら分化・分岐したとしても、その基盤にあるのは、ホリスティックな観点から「生のあり方」の研究を進めるという、ボアズ以来の総合人類学の「伝統」です。 アメリカの人類学が発展した20世紀前半から後半にかけての時期はまた、少数者集団や被抑圧者集団に対する知識人や思想家たちの関心が集まった時期でもあったのです。国内および地球上の人間をめぐる課題に積極的に取り組む中で、アメリカの人類学は独自の発展を遂げたのです。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳