【親孝行物語】「音信不通だった息子が、孫を連れて帰ってきた…」仕事一筋の男性が苦労の果てに手にした家族~その1~
「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。 厚生労働省の発表によると、2024年1~6月に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は、前年同期比5.7%(2万978人)減の35万74人と過去最低だった(2024年『人口動態統計』速報値)。政府は2024年度から少子化対策に取り組む「加速化プラン」を策定。10月分から児童手当の所得制限を撤廃し、高校生まで支給対象を延長するなどを行なっている。 東京都心に住む敏志さん(75歳)は、息子と孫と3人で生活している。「音信不通だった息子が、孫を連れて帰ってくるとは思わなかった」と慣れない育児に奮闘中だ。
6畳一間に家族6人で生活した幼少期
敏志さんは、高校中退後、社会に出たという。生家は大阪にあり、4人兄弟でとても貧乏だった。 「6畳一間のアパートに、6人家族で住んでいるんだもの。畳敷きの砂壁のジメジメした家で、父親は何の仕事をしているかわからない人で、母親は飲み屋さんの雇われママをしていた。姉が2人いて、下に弟がいた。僕は3番目だから、家族の中でも存在感が薄い。戦後世代とはいえひどい環境でしたよ。周りがみんな貧乏だから、そんなもんだと思っていたんです」 風呂に行くのは3日に1回、食べ物は近所の人がくれていた。服は全てお下がりだったという。 「常に誰かの名前が書かれているものを使っていたから、中学校のときに近所のおばさんに買ってもらった新しい筆箱が嬉しくてね。今でも探せばうちのどこかにありますよ」 その筆入れは、セルロイド製で緑色をしていた。敏志さんが「貧乏は恥ずかしいことだ」と思い始めたのは、高校に進学してから。 「中学校時代、お金がないから友達とも遊べないし、道具が買えないからスポーツもできない。仕方がないから勉強するしかなかったんです。成績は常にトップだったんで、先生から“どうしても高校へ行け”と、名門の県立高校に進学することに。ただ、この学校は、金持ちの子しかいなかった」 余裕がある家庭の子は、敏志さんをいじめるのではなく、「かわいそうだから、なんとかしてあげないと」と思ってくれていたという。 「制服を買うお金がないから、誰かのお下がりのテカテカの学ランを着ていたんですよ。それで僕が貧乏だと思ったんでしょうね。昼の弁当を持ってきてくれる人がいたり、“相談に乗るよ”と言ってくれたりね。5月に合同ハイキングがあり、僕はお金がないから欠席しようとしていた。すると、費用をカンパで集めようという動きが起こったんですよ。でも、恵んでもらってまでハイキングに行きたくないと、欠席しました」 誰も悪意はない。ただ「かわいそうな敏志のために、みんなで助けてあげよう」という優越があった。 「多くの人が恵まれていて傲慢なんです。そういう善意のようなものが気持ち悪くなって、夏休み明けに学校を辞めました。勉強するよりも働いてお金を稼ぎたい。学費は姉2人が出してくれていて、彼女たちのお荷物にはなりたくなかった。下の弟はとっくに養子に出されていました。父はすでに死んでいて、母は男のところに行きっきりでしたからね。ウチの家族は元々バラバラだったんです」 高校中退後、敏志さんは夜の仕事を始めた。姉2人も飲み屋さんで働いていて、それ以外の仕事は知らなかったという。 「大阪の繁華街でバーテンダーの見習いのようなことを始めました。半年くらい経った頃かな、40代の男性が来て、あれこれ話しているうちに、高校の先輩だとわかったんです。相手は旧制中学校時代の卒業生。ちょっと身の上を話すと、“君も苦労しているんだね”と。大阪も空襲が激しかったので、おそらく男性は妻子を失っている。そういうことが見てわかるんですよ。昭和30~40年代は戦争で誰もが傷を負っていた」 その人は、店を出るとき、敏志さんに「明日8時に、ここに来なさい」と名刺を渡してきた。名刺の肩書きは代表取締役だった。会社に行くと、すぐに採用になり、営業としてすぐに働くことになったという。