『陪審員2番』SNS私刑時代にクリント・イーストウッドが正義を問う
『十二人の怒れる男』をアップデート
脚本家のジョナサン・エイブラムズは、なんと今回が長編デビュー作。インタビューによると、初めての長編にしてイーストウッドに選ばれたきっかけは、脚本に描かれた“人間味”にイーストウッドが強い興味を抱いたことだったという。 当初、エイブラムズは映画スタジオに本作の脚本を売り込むため、より大衆受けする要素をやむをえず取り入れていた。しかしイーストウッドは、脚本を一読するやそれらを見抜き、「すべて削除するように」と要望。表面的で大げさな部分をなくすかわり、人間の心理をより深く掘り下げるよう求めたという。エイブラムズは、イーストウッドの代表作『ミスティック・リバー』(03)を強く意識しながら改稿を進めた。 作品の下敷きとなっているのは、シドニー・ルメット監督の名作『十二人の怒れる男』(57)だ。有罪を主張する陪審員たちが、主人公の論理と説得によって次々に翻意していく展開は、言ってしまえば同作そのまま。ただし、『十二人の怒れる男』の主人公である陪審員8番とは異なり、ケンプの場合は、被告人のサイスが無罪になることで自身がリスクを負う。この葛藤が、中盤を占める評議のやり取りをよりスリリングにした。 一方で『十二人の怒れる男』と大きく異なるのは、同作が現実の司法を忠実に反映することよりもミステリーとしての謎解きや娯楽性を重視したのに対し、『陪審員2番』は捜査・司法と人間の関係を丹念に描くことに注力したことだ。時として陪審員たちは(検事でさえも)、捜査の手続きや証拠の正確性より自らの感情や意志を優先する。自分の信じたい物語のため、結論ありきで議論を進めようとする。そして、先入観や思い込みにしたがってあらゆる情報を判断する。 2時間に満たないタイトな上映時間のなか、物語はスピーディーに展開するが、そこでイーストウッドが強調するのは、“いかに真相が解明されるか”ではなく、“いかに人間が判断を誤るか”のほうだ。思考や姿勢に偏りが生じるほど、真実は見えなくなっていく。「一度悪事を働いたものは改心しない」、「女性に暴力を振るう男は裁かれるべき」、「根拠はないが有罪にちがいない」、「事件よりも家族のほうが大切」――司法の場らしからぬ発言と考え方が空間を支配するなか、自分が犯人ではないかと葛藤するケンプが、誰よりもまっとうな論理を展開する。人が人を裁くことは、かくも難しいのだ。