「悩みが尽きず、周囲に卑屈な人」ほど自分しか見えていない
容姿や学歴が秀でていなければ、幸せになれないと思い込んでいる人がいる。悩みに囚われ、自分の内へと閉じこもってしまった人が、充実した人生を送るには何が必要なのか。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏が語る。 ※本稿は、加藤諦三著『「自分」に執着しない生き方』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。
自分、自分、自分で消耗していないか
これだけ人に迷惑をかけているのにどうして気がつかないのだろう。とにかく不思議になる。 そして悩みの相談は、自分は他人のためにこんなに迷惑を受けているというようなものなのである。自分が人から迷惑をかけられることにはひどく敏感なくせに、他人に迷惑をかけることには全く無関心なのである。 そしてたいてい迷惑しているというのはその人の甘えである。自分は周囲の人から特別にあつかわれて当り前と思うから迷惑と感じているだけである。 彼らには驚くべき前提がある。自分の人生には何か障害があってはならないということである。カレン・ホルナイに言わせれば、これはまさにノイローゼである。 カレン・ホルナイは神経症的要求としてこれをあげている。自分の人生に何か障害があってはならないという前提で生きていれば、あれもけしからん、これもけしからんとなるのは当り前である。これでは加害者であっても被害者と思い込むのも当り前である。他人に迷惑をかけても、それに気づかないのも当り前である。 人生には障害がないのが当り前なのではなく、人生には障害があるのが当り前なのである。自分の人生には障害があってはならない、障害があるべきではないと思い込んでいる人は、カレン・ホルナイのいうノイローゼである。 どこまで自己中心的な態度で押し通しても、絶対に人間は幸福になれない。たとえどんなに次から次へと自分の願望がかなえられても、それ以上のスピードで欲求不満はつのる。他人の不幸など見向きもしない。いや、他人を不幸にしたって何だっていいから、自分のエゴを押し通す人は、絶対に救われない。 自分が助けてあげられる人がそばにいるのに、けっして助けようとせず、自分、自分とかまっている人は絶対だめだ。それは、僕自身がそうだったからよく知っている。 自分が不美人だと、そればかりにとらわれて、自分を世界一不幸だと手紙をくれた人がいた。自分、自分、自分、しかしその人が、その自分、自分、自分からほんの少しでも離れて、そばの孤独なおばあさんの話し相手になってやれたら、どんどん幸福になっていくのである。 自分、自分で、家にとじこもって、何もしないのでなく、若者の集まりの準備の手伝いを少しでもしていけば、どんどん人生は開けてくるのである。 周囲から目をそらせばそらすほど、人間は不幸になる。社会から目を離せば離すほど、人間は不幸になる。社会から目をそむけ、自分のうちへとじこもればとじこもるほど、人間は無気力になっていく。 人間はそうできている。自分のうちへうちへととじこもれば、生きがいを失い、無気力になるし、社会へ向って目を開いていけば、それだけ人生も開けてくるし、生きがいもでてくる。 自分、自分、自分で自分のことで消耗し尽くしている人は、こうしなければ自分は救われないというある解決にしがみついている。 たとえば自分は美人にならなければ幸せになれない、自分はあの会社に入らなければ幸せになれない、自分はあの人に勝たなければ幸せになれない、自分は皆に誉められなければ幸せになれない、それ以外に自分の幸せになる道はないと思い込んでいる。 自分はすごい人にならなければ、悩みは解決しないと思い込んでいる。 悩んでいるものにとって唯一の現実は自分の悩みである。隣にその人の助けを必要としている人がいることは、彼にとって現実ではない。もし眼の前にいる人が彼にとって現実となれば、彼の悩みも解決の方向に向くのである。 他人も自分と同じように感じたり、願ったりしているのだということがどうしても現実とならない。これが現実となると人とつき合うことが意味を持って来る。悩んでいる人にとって人とつき合うことは意味をなさない。