昭和の日本人はなぜ海外で“暴走”したのか? 90年代まで続いた「売春ツアー」、経済大国の蛮行が現代に問いかけるものとは
江戸時代から続く旅行と売春の関係
日本における売春と旅行の関係は、現代に始まったものではない。特に注目すべきなのは、現在の新宿の前身となる内藤新宿の発展過程である。1698(元禄11)年に甲州街道の宿場町として誕生した内藤新宿は、江戸の町民が手軽に“遊び”に出掛ける場所として栄えた。当時、宿場町には ・旅籠(はたご):江戸時代の宿泊施設で、旅行者が休息を取る場所。食事や寝床を提供し、宿泊料金を取る営業形態だった。 ・茶屋:休憩や食事を提供する場所で、茶を出す店を指す。旅の途中で一休みする場所として使われ、軽食やお茶が提供されることが多かった。 ・遊女屋:江戸時代の売春を行う施設。遊女と呼ばれる女性たちが接客をし、客との交渉や接待を行う場所だった。 が並び、江戸の人々の欲望を満たす場所となっていた。 旅行先での性的サービスという文化は、明治以降も形を変えて続いていく。その代表的な例が温泉地における風俗産業である。現代でも多くの温泉地では、ピンクコンパニオンを派遣するサービスやソープランドが営業を続けており、これは温泉地が古くから非日常的な性的快楽を求める人々の目的地として機能してきた歴史的な証拠である。
1960年代、売春ツアーの拡大
観光と性的サービスの結びつきは、古今東西を問わず普遍的な現象だ。売春を目的とした旅行は世界各地で見られ、19世紀末のパリの歓楽街や20世紀初頭のベルリンのナイトライフなど、多くの歴史的事例が存在する。 日本では、高度経済成長期を迎えた1960年代以降、こうした性的観光の目的地が国内から海外へと大きく転換していった。その背景には、 ・急激な円高による日本人の購買力の向上 ・アジア諸国との経済格差の拡大 があった。安価で非日常的な体験を求める日本人観光客は、より「コストパフォーマンスのよい」アジアの国々へと目を向けるようになったのである。 戦後、日本人の海外での売春ツアーは1960年代に台湾で盛んになったとされる。台湾がその地となった理由は、売春に対する取り締まりが非常に緩やかだったからである。台湾には、戦後の日本では廃止された公娼(こうしょう)制度が地方自治体の裁量で存続していた。 この制度が廃止されたのは1997年、当時市長だった陳水扁が「台北市娼妓管理規則」を廃止してからである。しかし、この政策には、業界に従事していた女性たちから強い反発があった。現在の法律では売買春は違法だが、指定された区域内では許可されている。 こうした事情もあり、台湾の新北投温泉などの歓楽街は、売春目的で訪れる日本人観光客でにぎわうようになった。その影響で、市街地の歓楽街にも日本人相手の性的サービスを提供する店が増加した。台北市内の中山北路には、キャバレーやダンスホールが並び、女性が性的なサービスを提供する喫茶店や理髪店も多く存在した。日本人が売春目的で訪れることが増えたため、1969年には台湾の立法院で売春防止法の制定が検討されるほどだった。